2019年10月 2日 (水)

関西電力バッシングの不思議 いったい何罪が成立するのか解説なし

関西電力の役員が高岡原発の地元の有力者から多額の金品を受け取っていたことでバッシングを浴びています。マスコミがバッシングをするのは何か理由があるんでしょうが,何が悪いのかという解説がありません。いったい罪は何でしょうか?

最初に報道されたときは税務調査との関連が指摘されていました。なるほど,100万円以上の金品を受け取った場合は贈与税がかかります。それを申告せずに受け取った(所得)とみなされると脱税ということで罰せられます。

しかし,今回の事件では受け取った金品は「預かっていた」という微妙な表現をしています。会社に預けていて自由に消費できるような状態になかったのであれば,所得とみなせるかは判断の分かれるところです。しかも贈った元助役もその遺族も返品を拒絶していたとか。それが事実かどうかは遺族に取材すべきだと思うのですが,残念ながら,NHKと朝日新聞しか情報源のない私は,遺族のコメントを見たことがありません。

収賄罪が成立すると考える人もいるかもしれません。しかし,収賄は公務員・政治家にしか適用されません。民間どおしの金品のやりとりで贈収賄罪は成立しません。残念ながら,NHKと朝日新聞しか情報源のない私は,そういう解説を見たことがありません。そのくらいのことは知ってて当然だから? すみません。それぐらいはほとんどの人にとって常識ですね。

では会社法でしょうか。金品を受け取った見返りに会社に損害を与えるような商取引を行ったとか。しかし,こちらもそれをほのめかすような報道はまったくありません。あえていえば元助役が顧問になっていた建設会社に通常よりも金額を水増しして工事を発注していたとか。であれば,関西電力を取材するのではなく,建設会社を取材すべきでは。残念ながら,NHKと朝日新聞しか情報源のない私は,建設会社の受注が増えたという記事は見ても,請負工事費が他に比べて高すぎるという記事を見たことがありません。もちろん,受注が増えただけでは犯罪ではありません。

原発関係の工事に税金が使われいる? いやいや,資金が豊富な電力会社が原発の安全対策を行うのに税金をつかうなんて聞いたことがありません。的外れもいいとこです。

じゃあいったい何が悪いんでしょうか? 金額が桁違いなのがよくない? なるほど,高額金品受領罪,あるいは貧乏人から嫉妬されて当然罪でしょうか(冗談です。こんな罪はありません)。

結局のところ,会社の営業でお得意さんを接待するのに桁外れの付け届けをした,ということで終わりになるの? まさかこれで終わりませんよね。なにしろマスコミは関西電力に対して「庶民の怒り(社会的制裁を下せ)」を代弁していますから。電力料金をちゃんと払っている庶民がいる一方で私腹を肥やしている会社役員がいると。

私は次のように思います。バッシングするよりも,関西電力との契約を打ち切って,他の電力会社と契約すればいい。鹿児島でも九州電力がいやならナンワエナジーと契約できます。関西地方だったらなおさら他にもいっぱい売電会社があるでしょう。バッシングするマスコミも,それにのっている庶民も関西電力との契約を打ち切ればいい。もしそれをしないなら,言ってることとやってることが矛盾しませんか?

精神に批評をもたぬ歌人らをカメレオン派と呼んでやろうか(影山一男)

2019年10月 1日 (火)

電話男の背後の席に座って見えてきたもの

アミュ地下でいつもキョロキョロしている男性がいます。携帯電話を耳に当てながらまったく会話をしていない不思議な色黒の中年男性で,私は「電話男」とあだ名をつけています。(2019年8月7日ブログ参照)

先週のこと。混み合う夕方のアミュ地下のフードコート。私はたまたま中央付近に空席を見つけたので,そこに腰掛け,ナッツをつまみに缶ビールを飲んでいました。20分もすると私の周りの席にいた高校生らのグループが次々に席を立ち,空席が目立つようになりました。

やれやれ静かになってよかったと思ったのもつかの間,電話男が私の前の列に向かい合わせになるように座りました。今日は電話はせずにタブレットを机の上におき,俯(うつむ)いたまましきりに画面を操作しています。

ああ,今日は視線があわずにすみそうだな,と彼の様子をぼんやりみていると,思わずぞっとして背筋が寒くなりました。俯いた顔から眼球が下に飛び出ていて,黒目がこちらの方を睨(にら)んでいたからです。恐ろしくてとっさに目を背けました。

このとき私の右側の席と後ろはすべて空席。左隣に青いタイトスカートの制服を着た短大生が向かい合わせで座っているだけ。彼女たちはフライドポテト食べながら談笑していました。ひょっとして彼女たちが目当てなのかと勘ぐりましたが,この席にずっといるのも気味が悪いので,さっさとビールを飲み干してバス停に向かいました。

そして今日の夕方。アミュ地下のフードコートは珍しく閑散としていました。7割以上の席が空席だったのですが,青いタイトスカートの短大生のグループが数組いて,それぞれおしゃべりをしていました。そして今日も電話男が座っていました。

今日は彼の視線を浴びずに済むよう,彼の真後ろの席に座りました。そして電話男の背中越しに短大生3人がこちらを向いて座っていたのを見て,先週の疑惑が確信に変わりました。「この男はミニスカートの女性と向かい合わせになる席を選んで座ってるんだ」と。

若い女性のスカートの中をのぞく楽しみがわからないでもありません。痴漢行為でもないでしょうけど,執拗に視線を周囲に向けながら,あちこち移動するのはやめてほしいなあ。

それにしても不思議です。男の私が彼の顔を見ると不愉快になるのに,彼と正面向いに座る女性達は気にならないのかしら。先週と同様,今日の短大生達も楽しそうに談じていました。私が過剰なんでしょうか。この日はそんなことを思いながら2,3分もしないうちに私は席を立ち,アミュ地下を後にしました。やっぱり居心地が悪いよなあ。

九時間は乗る鈍行の席に着きさてと見回す美人やいずこ(岩田正)

2019年9月30日 (月)

消費税増税前の駆け込み需要は確かに存在していた 

10月1日から消費税が8パーセントから10パーセントに引き上げられます。飲食店ではレジが不足しているとか,外食産業の値段に混乱が生じているとか,をマスコミが報道しています。が,報道の中には消費税反対の声はほとんどありません。もはやニュースの価値がないということなんでしょうね。

週末はマツモトキヨシへ。シャンプーやトイレットペーパーなどの日用品を買いだめ。普段はお客がまばらなこの店もレジには5人ほどの列ができていて,カートはなくなっていました。化粧品など高額な商品を扱っていれば駆け込み需要もあるでしょうね。

すぐ隣のマックスバリューで食料品を買い物。こちらも駐車場は満車。店の入り口のカート置き場はほとんどカートがない。店内も賑わっていました。今日は運動会だから空いていると思っていたのに。消費税増税の駆け込み需要ってすごい。(でも,食料品は据え置きだから関係ないはずなのに・・・)

そしてビックカメラへ。こちらも行列ができていました。やはり家電製品だと金額も高いので消費税増税前の駆け込み需要なんでしょうね。

今日の買い物は合計5万円程度。8パーセントだったら4000円,10パーセントだったら5000円が消費税。その差額1000円が駆け込み得というところでしょうか。

思えば消費税導入直後のマスコミの報道はすごかったなあ。当時は赤電話に10円玉を入れて電話をしていました。3分10円の設定が,数秒(3パーセント分)早くなったことを大事件のように報じていました(本当にくだらないニュースでした)。隔世の感があります。

こんなに税金が高くなったのは社会保障費がそれだけ膨らんでいるのが主な原因です。なにしろ医療費と年金に対する負担額が増加の一途。ただでさえ財政を圧迫しているのに幼保無償化とか,奨学金を返済不要にとかの主張を聞くと,頭がおかしいとしか思えません。

先日,れいわ新撰組の山本太郎が朝日新聞のインタビューに答えていました。「財政が悪化して何が悪いんですか?」 すごいなあ,こんなコメントができるなんて。これだけ借金が多いのにインフレが発生せずに国家予算を組めるなんて世界で日本だけでしょう。希有の存在です。だから勘違いしているんでしょう。日本は外国からの借金がないので助かっていますが,いずれ日本の預金も底をつきます。このペースでいくと日本に財政危機(最終的には金融危機)が訪れるのは時間の問題です。

司馬遼太郎の「項羽と劉邦」という小説があります。古代中国では人口が増えすぎると食料が不足し,治安が悪化,やがて内戦が始まります。戦争によって多数の民衆が犠牲になると人口が減少し,結果的に食料が足りるようになり治安が安定する。そんなことが書かれていて少なからずショックを受けた記憶があります。

日本の場合も,古代中国のように借金がかさんで国が破産し,年金や社会保障制度が崩壊しないと,財政再建はできないのかもしれませんね。

みずあびの鳥をみている洗脳につぐ洗脳の果てのある朝(穂村弘)

2019年9月29日 (日)

「トミオー,やりすぎー」「サチコー」 鹿児島の恥さらし

昨夜は鹿児島ユナイテッド対京都サンガの試合が白波スタジアムでありました。

ラグビーワールドカップの日本対アイルランドの試合終了が午後6時15分ぐらい。日本の勝利を家で見届け,その余韻に浸る間もなくスタジアムへ。スタジアムに到着したときにはすでにユナイテッドのスターティングメンバーの発表は終了していましたが,ぎりぎり午後7時のキックオフに間に合いました。

バックスタンドは満員。メインスタンドもユナイテッドサイドは空席がほとんどない。ビジター側を探したところ,一列7席程度がずらっと空席になっているところがあったので,急いでそのうちの1席に座りました。

ユナイテッドのゴールキーパーはアンジュンスに代わって山岡が初出場。センターバックには赤尾が復帰。ボランチは平川と中原秀人,平川の動きが悪いとみるや前半のうちに八反田に交代。金監督がチームの背骨である,キーパー,センターバック,ダブルボランチのラインをごっそり入れ替えたことに,何かを変えなければ勝利はないという,強い意識を感じました。

いつものユナイテッドは,アンジュンスとバックスで無駄なパス回しが見られますが,今日のゴールキーパー山岡はひたすらロングパスを前線へ蹴り込みました。FWのルカオにボールを当て,彼からのポストプレーを狙っていることがはっきり理解でき,「今日は違うぞ」と期待しながら応援しました。

後ろの席から中学生らしい男子の声が飛びます。「トミオー,やりすぎー」「サチコー,クロスをあげろー」 どうやらトミオとはルカオのことらしく(サチコは不明),声をあげる度にまわりの男子達がゲラゲラ笑い,突っ込みをいれています。「オナニーのやりすぎでインポになったようです」「ここでトライをあげれば5点」など,試合とは無関係のことを叫んでは仲間内の笑いをとっています。

ハーフタイムのとき,席を立ったついでに見てみると,私の後ろには緑色のシャツを着た中学生男子が20人ほどかたまっていました。どうやらどこぞの中学校のサッカー部が全員で観戦していたようでした。ここはホームとはいえ,京都から応援にかけつけたサポーターも私の周りに結構いました。鹿児島の恥さらしもいいところです。そして,どうしてここだけが空席だったのか理解できました。おそらく私が来る前には,だれかが着席していたのでしょうが,後ろのバカたちに気分を害して移動したのでしょう。

応援の形はいろいろあります。黙って見ている人。サポーターの応援歌にあわせて手拍子をする人,ボールの行方に一喜一憂したり,歓声をあげたり,ため息をもらしたり,一緒に来た友人らと感情や感想を口にしたり。形は違えどみんな試合に注目しています。

しかし,この日の中学生にとっては,目の前で繰り広げられる懸命なプレーから何かを感じ取るよりも,周りにいる仲間から笑いをとることが大事なのでしょう。もちろん,これは応援でも観戦でもありません。彼らも学校では試合をすることがあるでしょう。普段からこんなふうに観客に笑いものにされているからこういう態度をとるんでしょうね。ある意味,あわれな子ども達です。

試合開始前,ユナイテッドの中原選手らが,誹謗中傷をしない,選手,サポーター,お互いを尊重するという趣旨のリスペクト宣言を読み上げていました。皮肉です。

試合は0-1で負け,中学生の態度に不快な思いはしましたが,ストレスは低かった。金監督の変革する意識が試合で見られたことと,京都の個々の選手の技術がすばらしく,パス回しが華麗で,敵ながらあっぱれと素直に感動したからでしょう。

もうひとつ気になったのは勝利の女神。島美人のお姉さん,職場のユナイテッドファンの女性です。最近彼女たちの姿を見ません。ユナイテッドの連敗時期と重なっているだけにとっても残念です。次のホームは10月20日。どうか次こそ彼女たちの笑顔とユナイテッドの勝利に出会えますように。

いるはずのない君の香にふりむいておりぬふるさと夏の縁日(俵万智)

2019年9月28日 (土)

朝日新聞が「精彩を欠いていた」と評価したリーチマイケルが大活躍

夕方はラグビーワールドカップ,日本対アイルランドをテレビで観戦しました。

アイルランドは世界ランキング2位。一方の日本は9位。世界的な評価はアイルランドが上。過去も日本はアイルランドに9戦全敗。しかし,地元開催と言うこともあって,試合前は日本の勝利を願う報道が過熱していました。

日本はリーチマイケルがベンチスタート。朝日新聞の記事では,リーチは初戦のロシア戦では攻守に精彩を欠いていたとありましたが本当? 私はリーチマイケルが大健闘して日本のチームメイトを鼓舞しているように見えましたけどね。

アイルランドは自陣からはキックで前進。敵陣に入るとフォワードがラックサイドを何度も突進します。一方バックスは,ディフェンスのときのタックルでゲインしていくスタイル。試合前は,私はこれまで同様,この方法で戦ってくると思っていました。

ところが,スタンドオフのセクストンが欠場した影響か,アイルランドはほとんどハイパント攻撃がありません。さらに第1節のトンガ戦で見せた執拗なフォワードの突進がほとんど見られません。それどころかセクストン選手に代わって出場した選手のキックパスで2度トライを奪います。これは日本向けに研究してきたのか?

逆に日本はトライを狙うキックパスを繰り返しました。前半はあともうちょっとでトライという場面が3回ありましたが,アイルランドのディフェンスの足が速い! 追いつけませんでした。

また,日本はフォワード戦では不利と考えたんでしょうね。ペナルティキックのチャンスを得ると,ラインアウト(からのトライ)は一度も選択せず,すべてショットを選択。結果的にこれが功を奏し,6本中4本のペナルティゴールが決まりました。

そしてゲーム後半。意外な展開になりました。アイルランドは得意のフォワード突進を繰り返しますが,パスを出すごとに後退していきます。それだけ日本のタックルが早くて強烈。そしてスクラムでも反則を犯します。意外や意外。フォワード戦では日本が勝っていたのです。

日本がアイルランドにフォワード戦に勝つようになったのは,怪我をしたマフィに代わってリーチマイケルが出場してから。朝日新聞の記事と正反対に,今日もリーチは大活躍でした。日本のフォワードがつくった攻撃の起点から福岡がトライ。日本は16-12と逆転し,最後は7点差をつけて勝利。興奮した試合でした。

余談ですが,試合中,アナウンサーが日本のプレーのひとつひとつに,4年前のワールドカップで日本が南アフリカ(当時世界ランキング3位)に逆転勝ちした「世紀の番狂わせ」のときと似ているとのコメントをちりばめていました。でも,今の日本は4年前とは違います。少なくとも「番狂わせ」と言われるほど弱いチームではありません。南アフリカ戦の番狂わせの再現と過度に強調するのは,日本の選手はもちろん,アイルランドの選手にも失礼ではないでしょうか? ちょっと違和感を感じました。

ラガーらのそのかちうたのみじかけれ(横山白虹)

2019年9月27日 (金)

わたせせいぞうのカレンダー2020が届く 娘の感想は「もうやめて」

数年前,北九州市の門司港をたずねたときのこと。家族全員で税関跡や門司駅のレトロな町並みを散策しました。

このとき,たまたまある洋館のひとつで「わたせせいぞう展」が開催されていました。わたせせいぞうといえば,私が大学生の頃,「ハートカクテル」が週刊モーニングに掲載されていて,そのおしゃれな恋愛を描くドラマが若者達を魅了していました。

当時の私はさほど熱心な読者ではありませんでした。絵は素晴らしいのですがストーリーやセリフはセンスがない。でも,あのバブリーな時代のことをなつかしく思い,観光はそっちのけで作品展をのぞいてみました。

中に入ると,作品のひとつひとつが「ハートカクテル」の世界そのまま。あれから30年。今でも変わることなく,男女のおしゃれな恋愛をモチーフにし続けていることに,かすかながら感動しました。そしてあのバブリーな時代,デオドランド志向な雰囲気を思い出しました。

クリスマスの夜は,高級なシティホテルを予約するカップルでいっぱい。贈り物はティファニーの首飾り。「朝シャン」が当時の清潔志向を加速し,村上春樹のポップな小説が若者達の心をつかむ。F1ブームでアイルトン・セナに熱狂し,スキー場やビーチは素敵な恋愛を求める若者が押し寄せる。

北九州市の展示会で,私はわたせせいぞうの版画を1枚購入しました。衝動買いですね。3万円ぐらいだったでしょうか。それ以来,毎年,わたせせいぞうのカレンダーやポストカードを購入しています。カレンダーは役目を終えた後も大事に保存して,季節にあわせてその絵を額縁に入れて飾っています。この額縁は50センチ四方あるので,結構インパクトがあります。ポストカードは全部大事にとっておいています。が,1枚だけは,私の好きなひとにメッセージカードとして渡しました。

大学生の頃は気付きませんでしたが,わたせせいぞうの絵は私を明るい気持ち,ウキウキした気持ちにしてくれます。今日は2020年版の壁掛けカレンダーと卓上カレンダー,そしてポストカード20種類が届きました。包装紙を破っていると,近くで見ていた高校3年の娘が苦い顔をして「もうやめて。キモい」と吐き捨てるようにつぶやきました。ああ,若いのは心だけ。外見は立派なおじさんなんだなあ。

会うまでの時間たっぷり浴びたくて各駅停車で新宿に行く(俵万智)

2019年9月26日 (木)

「表現の不自由展・その後」を一面で報じる朝日新聞を読んで

慰安婦を表現した少女像や昭和天皇を含む肖像群が燃える映像作品などにテロ予告や脅迫を含む攻撃が殺到して中止していた「表現の不自由展」が,脅迫などのリスク回避策を講じた上で展示を再開することが朝日新聞の一面トップで報じられていました。

新聞二面には,展示会が中止になったことについて検証委員会が中間報告をとりまとめまたことがでてました。中間報告によると,作品自体は問題ないが政治性を認めた上で「偏りのない説明が必要」だったのに,芸術監督はそれを行った。そのことが騒ぎの原因。ということみたいです。

記事の最後の締めは芸術監督の津田大介氏のコメントでした。「(検証委員会の中間報告で指摘されたように)十分なキュレーション(展示企画者)だったとは僕も思わないがそれが(この問題の)本質なのか。攻撃してきた人が実際には展示を見ていないわけですから」

津田氏のコメントを見て,東尾とデービスの乱闘騒ぎを思い出しました。

私が中学生の頃,西武ライオンズのピッチャー東尾はバッターにえげつないシュートを投げるので有名でした。試合中,東尾の投球が近鉄バファローズのデービスの肘を直撃。怒ったデービスが東尾を数回殴りつける乱闘に発展しました。当時は大きな社会問題にまで発展。あらゆるメディアにおいて,いわゆる知識人たちが「暴力はいけない」的なことをもっともらしく発言していました。

私が大学生のとき読んだ「プロ野球大事典」(玉木正之)に,このことが紹介されていました。

スポーツライターの玉木は,ある記者から乱闘事件について感想を求められた。ひととおり見解を述べた後,その記者にあなたはどう思うかと聞いたところ,その記者は「実はそのときの東尾の投球や乱闘をみていなかった」。

そして最後に,玉木が通う小料理屋のおばちゃん(当時90歳)のコメントがこの事件を端的に表しているとして紹介されていました。「ピッチャーからすればヒットを打たれたくない。だから体に近いところに投げてびびらそうとするやない。バッターもぶつけられたら『なにすんじゃ,こらあっ』と怒るのが当たり前。東尾も悪くない。デービスも悪くない。悪いのは周りで『告訴する』とか『暴力はいけない』とかゆうてる連中や」

津田氏のコメントは「実際に作品を見てない連中が,文句をガタガタ言うんじゃねえ」ということなんでしょう。でも,このケースはちょっと違うんじゃない? って思います。

そもそも,これらの展示作品は「芸術作品」なんでしょうか? 私からすれば芸術に名を借りた「プロパガンダ」としか思えず,とても感動なんておきません。逆に恨みや妬みなどの人間の醜さを感じて嫌になります。

従軍画家として活躍したものの,戦後に戦意高揚の犯人扱いをされて日本から追われた藤田嗣治の「アッツ島玉砕」。この絵の迫力はすさまじい。玉砕の意味を知らなくても,この絵を前にすると戦争の凄惨さに圧倒されます。また,放送禁止用語の「土方」が歌詞にあるためテレビ・ラジオでは放送されない美輪明宏の「ヨイトマケの唄」。こちらも当時の時代背景を知らなくても,その歌声には聞く者の胸にずしりと響く何かがあります。

これらを芸術作品と呼ぶなら分かります。でも少女像って何? これで感動するヒトっているの?天皇の肖像を燃やす映像? もしそれが天皇ではなく,腹いせにただ憎いだけの相手の写真を燃やす作品だったら芸術っていえる? 

政治的な是非はさておき,私は鑑賞したくないものにお金を払う気はありません。だから,津田氏のいう「見てないのに文句言うな」はちょっと傲慢に思えます。もちろん,だからといって脅迫して展示を中止させるなんて論外です。嫌だったら放っておく。それでいいのに。

大勢のうしろの方で近寄らず豆粒のように立って見ている(山崎方代)

2019年9月25日 (水)

人はなぜどんぐりを拾うのか? 寺田寅彦の珠玉の随筆「どんぐり」

私が子どもの頃は,なぜか夢中にどんぐりを拾う時期がありました。拾ったからと言って食べるわけでもなく,それを遊び道具にするわけでもない。でも,地面に落ちている美しいどんぐりをみつけると,つい手に取り,そのままポケットに入れてしまうのです。

最近は,人の行動パターンを遺伝子(DNA)で解析しようという試みが主流になりました。いわゆる行動心理学と進化論が統合されたような学問です。人は数百万年も昔から,どんぐりを拾ってそれを食用にして生きてきた。その名残でいまでも形のよい(おいしそうな,栄養のありそうな)どんぐりを見つけるとそれを拾うと解釈すれば,なんだか納得したような気持ちになります。

現代人はどんぐりのようなまずいものを食べる必要はなくなりました。でも行動パターンは簡単には変えられない,その証明と言えるかも知れません。

寺田寅彦随筆集の第1巻に「どんぐり」というエッセイが収録されています。私はこの作品が大好きです。寺田には肺病を患っている妻がいました。子どもを身ごもったものの長く自宅で静養する日々を送っていました。2月半ばの風のない暖かな日,医師から外出の許可を得た妻をつれて,寺田は自宅近くの植物園に出かけます。植物園をひととおり見終えて出ようとするとき,妻が地面に落ちているどんぐりに気付きます。

ちょっと長いですが,青空文庫からそのエッセイの後半部分をコピペしてみました。


 出口のほうへと崖の下をあるく。なんの見るものもない。後ろで妻が「おや、どんぐりが」と不意に大きな声をして、道わきの落ち葉の中へはいって行く。なるほど、落ち葉に交じって無数のどんぐりが、てた崖下がけしたの土にころがっている。妻はそこへしゃがんで熱心に拾いはじめる。見るまに左の手のひらにいっぱいになる。余も一つ二つ拾って向こうの便所の屋根へ投げると、カラカラところがって向こう側へ落ちる。妻は帯の間からハンケチを取り出して膝の上へ広げ、熱心に拾い集める。「もう大概にしないか、ばかだな」と言ってみたが、なかなかやめそうもないから便所へはいる。出て見るとまだ拾っている。「いったいそんなに拾って、どうしようと言うのだ」と聞くと、おもしろそうに笑いながら、「だって拾うのがおもしろいじゃありませんか」と言う。ハンケチにいっぱい拾って包んでだいじそうに縛っているから、もうよすかと思うと、今度は「あなたのハンケチも貸してちょうだい」と言う。とうとう余のハンケチにも何合なんごうかのどんぐりを満たして「もうよしてよ、帰りましょう」とどこまでもいい気な事をいう。
 どんぐりを拾って喜んだ妻も今はない。お墓の土にはこけの花がなんべんか咲いた。山にはどんぐりも落ちれば、ひよどりの鳴く音に落ち葉が降る。ことしの二月、あけて六つになる忘れ形身のみつ坊をつれて、この植物園へ遊びに来て、昔ながらのどんぐりを拾わせた。こんな些細ささいな事にまで、遺伝というようなものがあるものだか、みつ坊は非常におもしろがった。五つ六つ拾うごとに、息をはずませて余のそばへ飛んで来て、余の帽子の中へひろげたハンケチへ投げ込む。だんだん得物の増して行くのをのぞき込んで、ほおを赤くしてうれしそうな溶けそうな顔をする。争われぬ母の面影がこの無邪気な顔のどこかのすみからチラリとのぞいて、うすれかかった昔の記憶を呼び返す。「おとうさん、大きなどんぐり、こいもこいもこいもこいもみんな大きなどんぐり」と小さいどろだらけの指先で帽子の中に累々としたどんぐりの頭を一つ一つ突っつく。「大きいどんぐり、ちいちゃいどんぐり、みいんな利口などんぐりちゃん」と出たらめの唱歌のようなものを歌って飛び飛びしながらまた拾い始める。余はその罪のない横顔をじっと見入って、亡妻のあらゆる短所と長所、どんぐりのすきな事も折りづるのじょうずな事も、なんにも遺伝してさしつかえはないが、始めと終わりの悲惨であった母の運命だけは、この子に繰り返させたくないものだと、しみじみそう思ったのである。
 
このエッセイを読む度に,人生の,そして数百万年も続くヒト(人類)の営みの不思議さを感じます。祖先の一部が私の体にも宿っていて,そして私が死んだ後も,私の一部が娘へ,そしてさらにその子へと受け継がれてゆく。そう思うと,年寄りが死を淡々と受け入れるのもわかるような気がします。
 
うすうすとしかもさだかに天の川(清崎俊郎)

2019年9月24日 (火)

娘の最後の運動会は,リレーとフォークダンスの2つだけ

先日は高校3年の娘の運動会(体育祭)が開催されました。とうとう子どもの運動会に参加するのはこれが最後です。

娘は足の速いのが自慢。小学生の時から徒競走はずっと1位。クラス対抗リレーではいつも選手に選ばれていました。中学生のときはテニス部,高校は帰宅部(?)だったのに。これも一種の才能なんでしょうね。

リレーに出場する場合は徒競走には参加できない決まりになっているとのこと。そんなわけで,娘が出場したのはクラス対抗リレーとフォークダンスの2つだけでした。午前中に高校に到着したものの娘の出番はお昼前。それまでは昼食場所の体育館に妻とレジャーシートの上で休んでいました。

いよいよフォークダンス。入場の時には姿が見えたのですが,その後は人混みに紛れて結局ダンスをしているところは見ることができずじまい。みんな同じ格好ですからね。よほど近くで踊っていないとわかりませんよ。

昼食時間にお弁当を開き,娘と話をしました。どうやら彼氏と入場したらしく,そのときの様子を語ってくれました。「ふつう,男女のカップルだったら一緒に入場したいじゃん。でも先生がダメダメっていうから,そのときはクラスの順番どおりに並んでたのね。でも,私たちの場合同じクラスだから,みんなは『ま,いっか』て許してくれたんだけど。でも,いざ入場するぞ,ってなったら一斉にカップル同士にババって並んだの。ひゃっひゃっひゃっ,すごいよね」

おにぎりを頬張りながら,いかにも嬉しそうに教えてくれました。私の高校時代と違ってずいぶんおおらかというか,自由というか。男女の恋愛も高校生だとかわいく見えますが,それっておじさんの僻(ひが)みかもなあ。

その日,たまたま彼氏とちょっと話しましたが,かわいらしい感じの男の子でした。なんだか娘の尻に敷かれそうでかわいそうだな,というのが私の第一印象です(こんな感想をもつ親がいるか,普通?)。

学級対抗リレーは圧勝でした。なんでも学校記録だとか。すごいなあ。12年続いたかけっこの集大成が大記録。まさに有終の美を飾ることができました。こちらはしっかりと見れました。退場してきたチーム全員がそろって写真撮影。みんな喜びにあふれた,いい笑顔をみせていました。青春ってかんじですね。

まあいいかすこしうるさいグラジオラス(川崎展宏)

2019年9月23日 (月)

台風一過の秋分の日 お彼岸だけにお団子と,なぜか今頃ツクツクボウシ

昨日は一日中台風の強風域にあり,土曜日の夜から雨風が時折強くなるなど,久しぶりに大型台風って感じでした。長崎県ではまだ停電が続いているとニュースで報じてきます。千葉県の停電も二週間も続くなど,本当に災害が続きます。宮崎県では竜巻が発生したみたい。

ところで大雨で油が流出した佐賀県は今はどうなっているんでしょうか。これだけ災害が続くと報道順位がどんどん下がっていきますね。ニュースの時間は限られていますからまったく目にしなくなりました。今回の台風で被害がないといいですけどね。

さて,ここ鹿児島では,一夜明けて朝から心地よいさわやかな風が家の中を吹き抜けます。桜島の噴煙も垂水方面に真西に流れていく様子が見えます。快晴。火山灰もなし。そんなわけで朝から家の周りに散らかった落ち葉や灰がこびりついたベランダや窓の掃除をすることにしました。

午後には妻の母がお彼岸のお団子を届けてくれました。あんこもついていて本当にありがたいことです。妻は食べないというので私一人で8個全部を食べました。食べ出したらとまらない,でも,ちょっと食べ過ぎですね。

夕方になるとツクツクボウシが鳴き出しました。私が子どもの頃は,お盆を過ぎて夏休みが終わりに近づく頃に「ツクツクホーシ,ツクツクホーシ,ツクツクホーシ,ジジジジジ・・」と聞こえてくるものでした。特に湯川内温泉へ続く道を歩いて行くと,至る所からこの鳴き声が聞こえてきました。夏の盛りのアブラゼミやクマゼミは騒がしいだけですが,ツクツクボウシは風情があります。

それと同時に,「ああ,まだ夏休みの宿題が終わってない」と憂鬱(ゆううつ)になる合図でもありました。宿題をするときのBGMみたいなものでしょうか。今日もそのことを思い出しました。匂いや音(音楽)は,そのときの感情と結びつきやすいのかも知れませんね。ツクツクボウシの鳴き声はなんだか悲しい気分になる声です。

それにしても子どもの頃に比べて1ヶ月も遅いこの時期までツクツクボウシが鳴くなんて異常に思えます。「暑さ寒さも彼岸まで」といいますが,この時期までセミが鳴いていた記憶がありません。地球温暖化の影響でしょうか。それだけ夏が長いのかも。

蝉の声しづくのごとくあけがたの夢をとおりき醒めておもえば(高野公彦)