2020年9月27日 (日)

長野に完敗 鹿児島ユナイテッドはこれからどうなる?

白波スタジアムにて,鹿児島ユナイテッド対長野パルセイロの試合を観戦しました。

試合は0-3で鹿児島が大敗。長野はチャンスを確実にものにしていく抜け目なさ。それに比べて鹿児島のふがいないこと。点差以上に,これで鹿児島はJ2に昇格できるのか? という思いが頭をよぎりました。

長野はハーフライン付近からドリブルでアタッキングサードまで持ち込むのに,鹿児島は止めることができない。相手は1人,鹿児島は3人以上いるにもかかわらず,こういうシーンが何度もでてきます。なぜ鹿児島のDFはボールを奪いに行かないのか? 数的に劣っているならディレイ(抜かせない代わりに相手のスピードを遅らせる)を選択することも理解できますが,そもそもディレイにすらなっていません。

長野は両サイドがボールを放り込んできますが,誰も当たりに行かない。中央でがっちり固めているなら理解できますが,3失点はその中央がマークが甘すぎる。これじゃあ,ディフェンスになっていないでしょ。

逆に鹿児島はサイドに何度も切り込むのにセンタリングを上げない。ごちゃごちゃボールを回しているうちにボールを奪われるシーンの繰り返し。一番酷(ひど)いのは,最前線に5,6人の選手が張り付いているのに,最終ラインでショートパスを繰り返してロングボールを前線に送らないこと。どういう戦略なんですか? ショートパスをつなぐなら,ボールの周囲に人数をかけるべきでしょう。あまりにもちぐはぐです。

米澤は前半途中で枝本に交代。馬場は後半途中に萱沼に交代。それでも何ら攻撃は変わらない,というかシュートを撃たない。後半の飲水タイムの時点で勝負はもう決まったと確信しました。

まだ後半戦は始まったばかり。ですが,試合内容がひどすぎる。これが本当に優勝(昇格)を狙っているチームのか疑問です。

以前はユナイテッドが負けるとむしゃくしゃして気が収まりませんでした。ところが,最近はどうも違います。腹が立たないのです。私の気持ちが完全に切れている証拠かも。

秋の夜の憤(いきどお)ろしき何々ぞ (石田波郷)

2020年9月23日 (水)

「ウィズ・ザ・ビートルズ」を読む 恋愛に憧れたころ

「一人称単数形」(村上春樹)を読みました。これは8作からなる短編小説集です。そのうちのひとつ,「ウィズ・ザ・ビートルズ」が深く印象に残りました。主人公は名前がでてきませんが村上春樹と思えばなんだか納得しそうです。この小説は一人称で書かれているので,半分自伝では? と思わせるような内容なので。

ビートルズのLPレコードを抱えた美少女を高校の廊下で見かけた思い出から,この物語は展開していきます。そして,今では結婚して娘を二人もうけてそこそこの暮らしをしている「私」が,かつてのガールフレンドの兄と偶然出会い,ガールフレンドの死を知り,あの頃に思いを馳せて,この物語は終わります。

ストーリーはもちろん素晴らしいのですが,なんといってもその書き出しが秀逸です。「歳をとって奇妙に感じるのは,自分が歳をとったということではない」「驚かされるのはむしろ,自分と同年代であった人々が,もうすっかり老人になってしまっている・・・とりわけ,僕の周りにいた美しく溌剌(はつらつ)とした女の子たちが,今ではおそらく孫の二,三人もいるであろう年齢になっているという事実だ」

私は村上春樹とは違って,高校生のときに「美しくて溌剌とした女の子」と出会ったことがありませんでした。高校は理数科だったこともあり,クラスには5,6人の女子しかいませんでした。その5,6人とは特に話をすることもなく,性的な興味もなく,当然ながら恋愛感情も生まれることはありませんでした。

学校全体からすれば,もちろん女子はたくさんいたのですが,周囲が美人だとか,かわいいだとかいう女子生徒を見ても,特段の気持ちが起きなかったのが正直なところです。どうしてそうだったのかよくわかりません。セックスに対してはやる気満々だったのですが,恋愛感情を抱くような経験は一度もないまま,高校を卒業しました。

しかし,高校生のときにラブレター,というか告白する手紙を書いたことが1度だけありました。その女性は中学生のときに,昼食時間に1度だけ話をしただけで,そのとき名前を知ったぐらい。中学を卒業して高校は別々だったのですが,高校1年か2年のころに偶然同じ列車に乗り合わせ,その女の子に当時悩んでいたことを話したことは覚えています。それから数日後に,彼女の住所を卒業アルバムで調べ,手紙を書いたのです。

彼女からは手紙の返事はありませんでした。その後,市の成人式に出席する機会がありました。このときは中学校の同級生が集まるのです。期待していたけれど,彼女の姿を見かけることはありませんでした。今ではもう彼女の消息を知るよしもありません。何しろ,現在住んでいるところが出身地とは離れているし,中学校の同級生と会うことも皆無,しかも彼女と親しい人が誰なのかすら知らないのですから。

でも,あのとき,どうして手紙なんか書いちゃったのか? と思うと不思議です。そのとき,その女の子が本当に好きだったのかと問われると,答えが曖昧になってしまうのです。おそらく,当時の私は彼女が好きというよりも,恋愛をするということに憧れていたのではないだろうか,と思うのです。

私は今49歳。白髪がずいぶん目立ち始め,髪も薄くなってきました。ビートルズのレコードを抱えた美少女と出会うことがないまま村上春樹が歳を取り続けたように,私もラブレターを書いた彼女と一度も会うことなく30年以上の時間が過ぎていきました。

今もし,彼女と再会したらどういう気持ちになるんだろうか,とふと思います。彼女の容貌の変化に驚くのか,あの頃の胸がキュンとした気持ちを思い出すんだろうかと。

日が陰(かげ)る校舎の隅に響いてた和声の中に君を探した (竹内亮)

2020年9月22日 (火)

イヌマキ1本でライオンが10頭買えるって素晴らしい!? 

9月20日(日)の朝日新聞が,「ライオン1頭10万円 猫より安い」と一面トップで報じていました。

新聞を読むとライオンは1頭あたり3頭の子どもが生まれるぐらい繁殖が簡単。今ではワシントン条約によって野生動物をアフリカで捕獲することができないため,動物園での繁殖・交換などが一般的になってきています。繁殖が簡単なライオンは値下がりし,1頭あたり10万円で取り扱われているとか。希少な猫だと30~40万円で取引されているので,「ライオンは猫より安い」となるようです。

話はかわって,実家の祖母の家のことです。祖母の家は屋根の梁(はり)にシロアリが入っていて、外から見ると屋根が波を打っています。そういうわけで20年以上,この家は空き家となっています。その庭には,イヌマキやサルスベリ,しだれ梅などが植えられていました。祖母が元気な頃は庭の手入れをしていて,庭木も元気にしていたのですが,放置していると庭も荒れてきて弱ってきました。

もう10年以上前のことですが,その庭にあるイヌマキを買いたいという人が現れて,相当な高値を伝えたようです。しかし父の答えはノー。放置しているのに,人が買いたいというと急に惜しくなるのはどうしてなんでしょうね。その後,申し出のあったイヌマキは枯れてしまいました。

朝日新聞にライオンの話が掲載された日,実家に戻りました。お彼岸の墓参りを兼ねてのことです。両親と世間話をする中で,祖母の家のイヌマキの話になりました。

「この間,イヌマキが100万円で売れたのよ。まだ庭に残っているけど売れてよかった。3本のうち2本はもう枯れてしまったからね。最近はキオビエダシャクがいっぱい飛び回っているでしょ。イヌマキがその幼虫にやられてしまってね。はやく持って行ってもらったほうがいいけど」

話を聞くと,どうやら中国に輸出するようです。植木が中国用にドンドン売れているとか。祖母の家の庭気は樹齢100年ぐらいでしょうか。そういう庭木はそれだけ貴重なんでしょう。

「100万円で売れたという話をしたら,他の人から500万円で売れているのに。もったいないことをして,って言われたのよ。でも100万円でもいいでしょ。誰も住んでいないし,これから木の世話もできないんだから」

もっともです。放置していた木が100万円もするなんて,棚からぼた餅みたいな話です。これを500万円で売れば,なんてよく言えた人がいましたね。

5,6年前,鹿児島中央駅前の屋台村で飲んでいたとき,森伊蔵の空き箱と瓶が,リサイクルショップで500円で引き取ってもらったことを私が自慢げに話したら,隣の男性が「お前はバカだな,東京だったら1万円で売れるんだぞ。酒屋の看板に飾っておいて,客の目を引いて,いざお客が来たら『あいにく今きらしてまして。こちらはいかがですか』ってやるんだよ」と説教されたことがありました。

その後しばらくして焼酎の3M(森伊蔵,村田,魔王)の空き瓶をそろえたことがありました。屋台村の話を思い出し,メルカリに3000円で出品しましたが,買い手は付きませんでした。

結局,儲け話は嘘が混じっていると考えて間違いありません。特に,見知らぬ人からの情報は,単に妬みや思い込みによってねじ曲げられています。言われた方は不愉快ですが,結局,現金を手に入れたのは私。あなたには関係ないでしょ。と距離を置いておくほうがいいみたいです。

ところでライオンの話です。10万円だったら自宅で飼うこともできそうです。ナショナルジオグラフィックにも,アメリカでライガー(ライオンとトラを交配して生まれた動物)を飼って商売にしている人が掲載されていました。ライオンも取引先を動物園に限定しているから値段が安いだけかもしれません。取引を広げたら,高値で売れて採算(?)が採れるかも。

そうだ。ライオンもイヌマキと同様中国に売ったらどうでしょう。意外と高値かも。

方形のガラスを運ぶ男いて透明をかくも重くかつげり (浜田康敬)

2020年9月21日 (月)

あるときは「怒る人」 あるときは「レーニン」 その正体は折田先生

京都大学の吉田キャンパスには,高名な先生の胸像がいくつかあります。そのうち,いつも「いたずら」されている像がありました。折田彦市像です。

私の記憶に残っているのは「怒る人」です。折口像の顔に赤いスプレーで吹き付けられ,土台となるコンクリートには「怒る人」と同じように赤スプレーで吹き付けられていました。一体何を表現したかったのかは不明です。

もうひとつは「レーニン」。折田像は胸像なので,胸と顔だけで腕はありません。しかし,「レーニン」と土台に書かれていたとき,白い両腕がついていて万歳をしようとする格好をしていました。こちらも一体何を表現したかったのかは不明です。

こんなイタズラをされている折口先生とは何者なのか。大学生だった私はまったく知らないまま卒業しましたが,先日読んだ「京大的文化事典」(杉本恭子)には,折田先生の経歴が紹介されていました。

折田先生は薩摩藩生まれ。旧姓第三高校の初代校長です。本書によれば「生徒の人格を認めることから教育が始まる」という信念をもち,三高から京大へと自由の校風をインストールした人。

三高は当時の京都大学教養部に相当します。三高の卒業生は「三高の自由は折田校長の人格に由来する」といっていたそうですが,まさに先生はその人格を通じて「自由」を伝えたといえます。学生たちの自主性を重んじて極力干渉せず,やりたいことをするにまかせ,何よりも学生たちと親しむことを心から喜んだようです。

興味深いのは,いくら調べても「三高の校風は『自由』である」と先生自らが定義した記録が見当たらないこと。おそらく,先生の教育,そして人格そのものをとおして受け取ったものを,三高生たちが言語化して共有したのが「自由の校風」だったのではないだろうか,と著者は記しています。

私が京都大学にいたのは平成2年(1990年)4月から平成7年(1995年)3月までの5年間。教養部にいたとき(すなわち1回生,2回生のとき)に出席をとっていたのは1回生のときの体育と語学(英語,ドイツ語)の授業だけ。それ以外は出席をまったくとりませんでした。私は1度も出席せずに単位だけ(試験だけを受けて合格点をとった)講義もいくつかありますから。

しかも,私がいた法学部は必修科目がありませんでした。だからといってはなんですが,私は法学部でありながら,民法や刑法,商法などの法律系単位をまったく取得せずに,政治系と経済系の単位だけで卒業しました。(これはこれで難しいことだと思います。他に聞いたことがありません)

それはともかく,私が京都大学にいて学んだことは「知識」ではありません。そんなものは本を読めばいくらでも学ぶことができます。私は,大学で学ぶと言うことは知識を身につけることはないと考えています。例えば,国際政治学の高坂正堯先生。1度,ゼミ旅行で訪れたバリ島のホテルのプールサイドで,先生とふたりきりで話をしたことがあります。寡黙な私に先生が話しかけてきたのです。その内容はほとんど覚えていませんが,先生の語り口は今でも覚えています。大学を卒業して30年近くなりますが,先生の著作を読む度に,先生が語っているように読んでいる自分に気づきます。

「薫陶(くんとう)」という言葉があります。初等教育は知識の習得が大事でしょう。しかし,大学教育になると「薫陶」,すなわち,雰囲気,匂い,人格などの要素が大きく影響します。リベラル・アーツという言葉に代表されるように,これこそ大学の存在意義だと思います。

娘たちが大学に進学しましたが,今年の前半はオンライン授業ばかりでキャンパスには一度も足を踏み入れていません。これで授業料をとるなんて,大学はどうしたんでしょう。「授業料を返せ」とは言いませんが,放送大学と同じことなら,自らの存在意義を放棄していると思われてもおかしくないでしょう。

もうわれを叱(しか)りてくるる人あらず 学生の目を見据えて叱る (永田和宏)

2020年9月20日 (日)

「京大的文化事典 自由とカオスの生態系」を読む

「京大的文化事典 自由とカオスの生態系」(杉本恭子)を読みました。久しぶりに学生時代を思い出しました。

もう30年以上前のこと。私は錦江湾高校理数科に入学しました。同級生は多くが医師を志望していました。しかし,父の強い希望で理数科に入学した私は,医師にまったく興味がない。入学早々,自分の大学志望を考えることになりました。

当時は,蛍雪時代の大学説明を読むのが当時の一般的な方法でした。その本をぱらぱらめくる中,京都大学の「自由な校風」に目がとまりました。その5文字が私に志望校を決めさせたのです。

高校2年生のとき,同級生と「青春18きっぷ」を利用して鹿児島から京都まで鈍行列車で行きました。目的はもちろん京都大学です。京都大学の教養部には全学連中核派の人たちがヘルメットにサングラスとマスク姿でアジ演説,キャンパスや東一条通には立て看があふれ,教養部のA号館の壁には無数のビラが貼られている。多感な私は心が踊りました。

あのときの京大吉田キャンパスには,猥雑(わいざつ)と喧噪(けんそう)と無秩序と混沌(こんとん)が渦巻いていました。言葉にできませんが,これが「自由」だと肌で感じ,受験を決意しました。

私が京都大学法学部に入学したのは平成2年(1990年)4月のことです。標題の本は19899年から2019年までを扱っています。著者は同志社大学の学生だったそうですが,私が在学中だったときの京都大学の風を,私と一緒に感じていたことになります。

教養部は私が京都大学を卒業する直前に廃止されました。このときは単純に学部の名称が「教養部」から「総合人間学部」になるだけ,と思っていたのですが,これが京都大学の自治・自由に大きな影響を及ぼしているとはまったく気づきませんでした。本書を読んで,初めて知ったといっていいでしょう。

3,4年前(2015年頃),京都大学に行きました。家族旅行で行ったこともありますが,大学同窓会の幹事としても「ホームカミングデイ」に出席したのです。このとき,京都大学のキャンパスには小綺麗なカフェがあり,教養部の鉄筋コンクリート造の武骨な建物は全面ガラス張りのおしゃれなビルに変わっていました。もちろん,立て看もビラも学生運動の活動家たちも見当たりません。無味無臭のキャンパスに変わっていました。このとき一抹の寂しさを感じました。

私が学生だった頃の京都大学は本当に「自由」でした。だからといって「自由」とは「何でもやっていい」ということではありません。「じゃあ,自由とは何ですか?どうすることなんですか?」と聞かれたら言葉では答えられません。

私の言葉ではうまく伝えられませんが,本書の最後に作家の森見登美彦(京大卒)がいいことを言っていましたので紹介します。「たとえば自分の身の回りの人や先人たちが,『ある状況ではこんなふうにふるまっていた』ということを見聞きして『それなら僕は今ここでこんなふうにふるまおう」と決めていく。言葉ではなく,いろんな人の生き方が重なっていく過程で,『あっ,これがもしかしたら自由なのかも?』という感覚をみんなで共有していくものではないかと思います」

私は教養部がまだ存在していた,京都大学のあの雰囲気の中で,学生生活を送ることができました。本当に幸せだったな。

無頼派と呼びたき君の中に見る少年の空澄みわたり (俵万智)

2020年9月14日 (月)

海外の著作を日本語に翻訳するときに原典を掲載するのはやめてよ

「国家はなぜ衰退するのか」(ダロン・アセモグル,ジェイムズ・A・ロビンソン共著)を読んでいます。今日読んだのは下巻です。オーストラリアの発展とフランス革命(その後のナポレオン戦争)が今日の経済的繁栄に大きな影響を及ぼしたところですが,その中に日本の明治維新が取り上げられていました。

そのとき気になったのが,坂本龍馬の船中八策が引用されていた箇所です。

「天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ,政令宜シク朝廷ヨリ出ズベキ事」など引用箇所が原典どおりの漢語の文章なのです。普通の人はなんとも思わないのかもしれませんが,私は嫌ですね。

この著書はもともとは英文です。それを翻訳するときになぜ現代語訳にしないんでしょうか?

ある程度の漢語の素養がある人なら大丈夫かも知れませんが,すべての読者がこれを読んですぐに理解できるとは思えません。英文を現代語訳したほうがよほど理解できるはずです。それをしないなんて。

同じようなことを「論語」でも経験したことがあります。

孔子が朝廷に仕えていたとき,客人を見送りにいった後,仕えていた王に「顧みず」と報告したという段があります。私は最初どういう意味だか分かりませんでした。

たしか呉智英の名著「現代人の論語」の中で,この箇所を解説した章がありました。

「顧みず」とは「お客さんは振り返りませんでした」という意味。お別れのときに,客人は振り返っては別れを惜しみます。その行為をしなくなるまで見送りましたよ,ということを報告したのです。

そしてこの解説は西洋の研究者の著書(英文)から引用したとありました。なるほど,論語もなまじ漢字で書いてあるので意味がよくわからない部分でもなんとなくわかったような気になります。しかし,英語となると厳密に理解しないと翻訳できません。そういう意味で英文の論語の方が理解が深まるというわけです。

さて,この著書を翻訳した鬼澤さん。あなたは教養があって原典でもそのまま理解できるすごい人なんでしょうけど,同様の箇所があるときには私のような浅学の読者のためにぜひ現代語訳にしてくださいね。

足もとはもうまつくらや秋の暮 (草間時彦)

2020年9月13日 (日)

ついに鹿児島でもジャージャー刀削麺が食べられる おすすめの中華

昨夜は天文館に出かけました。妻と二人でマルヤガーデンにオープンした無印良品に行くためです。ついでに晩ご飯も食べることにしました。

かねてから気になっていた「チャイナワン」を選びました。私たち夫婦は中華料理が大好き。家族で年に数回は中華料理を食べています。が,ファミリーレストラン風の「暖中」ぐらいしか鹿児島にないのがちょっと残念なところ。そこで新規開拓というわけです。

注文したのは「空心菜の炒め物」「エビ春巻き」「酢豚」「ジャージャー刀削麺(とうしょうめん)」,そして私だけのチンタオビール(瓶)です。

空心菜の炒め物はニンニクが効いていてグッド。酢豚は豚肉が柔らかくて本当に美味しい。エビ春巻きは20センチぐらいあるスティック状。手に持ってかじっていくスタイルです。エビがミンチになっていてとても美味しい。そしてイチオシなのがジャージャー刀削麺です。鹿児島で刀削麺が食べられるとは感激です。刀削麺は「きしめん」のような平たい麺です。ウーフンシャンの独特の香りが食欲をそそります。

これまで,夏休みに上海に2回ほど家族旅行で行ったことがあります。鹿児島ー上海線を利用して最初はツアー,2回目は航空券とホテルを予約して自分たちで行程を組み立ててです。2回目は自分たちでレストランも選びました。中国料理というと油っぽいイメージですが,現地の料理はそれほどでもありません。それなりの料金を出せばおいしい中華料理が食べられます。本場の味は調味料が全然違う。醤油の香りも独特です。

そもそも日本の中華料理は,インドのカレーと同様,本場の料理とは似ているようで全く違います。餃子の王将の料理も日本風にアレンジしています。(だから,海外の日本料理が本物ではないといって外国の料理を貶(けな)すのは,天に向かって唾をはく行為と同じだと思います。)

さて,チャイナワン。妻も喜んで食べていました。これほど現地の料理と同じ味を日本で,しかも鹿児島で出せるなんてすごい! 特に調味料,香辛料がまったく日本の中華料理とは違います。

お会計のときに店員さんに聞いてみると「すべて中国から仕入れています。調理人も中国から来てもらっています」とのこと。料理のことを絶賛した後,レジの前においてある壺の中身を訊ねると「紹興酒です。これも中国から仕入れてます。一杯どうですか?」

遠慮せずにグビグビいただきました。これはうまい。次に行くときには紹興酒を注文しないと損だよ。そんな気分にさせてくれました。ちなみにお代は全部で4200円。私はリーズナブルだと思います。

よろこべばしきりに落つる木の実かな (富安風生)

2020年9月12日 (土)

レトルトカレーを極めてみようよ 手抜き料理が普通になってきた

子どもが巣立って,今は夫婦2人暮らし。どちらも仕事が忙しく,帰宅が早い妻でも帰りは夜の8時ぐらい。私は早くても午後9時。それから料理をするとなるとどうしても手抜きになりがちです。

妻が帰り道に惣菜を買ってくることもしばしば。でも,それ以上に定番化しているのがレトルトカレーです。週1回は夫婦で近所のマックスバリューに出かけてまとめ買いするのですが,このときに必ずレトルトカレーを買っています。

昔はボンカレーとククレカレーしかなかったのに,今では幅5メートルの棚に4段もレトルトカレー商品が並んでいます。充実していますね。

昨夜食べたのは「ザ・ホテル・カレー」。解説がすごい。「煮詰めた仔牛のフォンとマディラ酒の芳醇なコクと香り」。何を言ってんだか私には意味不明ですが,とても美味しそうに思えるから不思議です。

この2ヶ月ぐらいは週に1回レトルトカレーを食べています。週替わりで商品を変えているのですが,やっぱりハウスのカレーが一番美味しく感じます。私は子どもの頃からハウスバーモントカレーを食べ続けているので,どうしてもハウス食品のカレーが美味しいのです。結婚してしばらくはハウス以外のカレールーを試してみましたが,最終的にバーモントカレー(中辛)に落ち着きました。

今でこそレトルトカレーを食べていますが,大学生の一人暮らしをしていた頃は,レトルトカレーを食べたいとは思いませんでした。金額が高かったということもありますが,食べるならバーモントカレーをたくさん作っておいた方が経済的だったというのが圧倒的な理由でしょう。

ルーのほかに豚肉,にんじん,じゃがいも,タマネギなどの野菜を買って,具材たっぷりの6皿分作ってもせいぜい500円ですからね。それに比べてレトルトは安くても1人分で200円。「ザ・ホテル・カレー」は400円近くするのですから。

過去にレトルト商品を食べて失敗したのがグリコ食品でした。「横浜中華丼」など,さまざまなレトルト商品がありましたが,グリコはどれもまずい。以来,グリコの商品はお菓子を含めてまったく買わないようにしています。人気商品のポッキーも私には口に合わないので,ここ最近は食べていません。ポッキーも数本食べると気分が悪くなるんですよ。

さて,レトルトカレーに戻ります。昔は具材がないのが残念に思っていたのですが,最近は気にならなくっている自分に気づきました。それよりもルーの味に満足しています。おなかの具合の変化なのか,嗜好(しこう)が変わってきているのか,私自身は変化の原因に心当たりはないのですがおもしろいものですね。

北窓をふさぎ怒濤(どとう)を封じけり (徳永山冬子)

2020年9月 6日 (日)

ローリングストックを実践してみませんか でも,一番大事なのは?

整理収納に目覚めている妻が最近はまっているのがローリングストックです。台風などの災害に備えて非常食を備蓄していても,どうしても消費期限が到来します。そこで消費期限がきたものから順次食べていってその分をまた非常食として備蓄していくという方法です。非常食を普段の生活の中で食べましょう,ということですね。

8月31日のNHK「おはよう日本」でも,このローリングストックを実践している主婦が取り上げられていました。この主婦がすごいのは非常食としての缶詰だけではなく,ガスコンロや調理器具まで非常時を想定して実践していること。

確かに災害時には水,ガス,電気といったライフラインがストップします。となると,非常食を食べるときもそれを想定して調理をしなければなりません。この主婦は缶詰の中身と野菜を一緒に味付けてラップでくるみ,ガスコンロで沸かしたお湯で温めて食べていました。

やっぱりここまで考えているからこそ,いざというときも慌てないのでしょうね。

さて,昨日の土曜日のこと。近所のマックスバリューに買い物に出かけたのですが,駐車場があふれるほどのお客さんが詰めかけていました。店内に入ってさらに驚いたのは,レトルトカレーとカップ麺,そして菓子パンがほとんど売り切れていたこと。日本人はカレーとラーメンとパンが好きなんですね。

カップ麺でも売れ残っていたのがカップヌードルの抹茶風鶏白湯。非常食でもこんな怪しいのは食べたくないですね。レトルトカレーでもLEEの辛さ20倍は残っていました。20倍は食べるものではなく,罰ゲームで使うものだということなんでしょうか。こういうときって人間は正直ですよね。

どうして売れ残っているのか不思議だったのが,食パン,ミックスナッツ,フルグラ。どれも栄養価が高く,日持ちがするもの。ミックスナッツはともかく,菓子パンが売れて食パンが売れ残るなんて意味がわからない。停電になったらパンを焼くことができないって理由なんでしょうか。フルグラは牛乳がないと食べられないってことなんでしょうか。そんなことしなくても十分食べられるのにねえ。

ちなみに我が家の非常食は,カップヌードル(ノーマルタイプ)4個,水かお湯をそそげばできあがりという雑炊やおにぎり6食分,パスタとレトルトパスタソース2食分,ソーメン4把,レトルトカレー4食分,フルグラ2袋,水2リットルを12本,後は冷蔵庫の野菜やお米など。夫婦2人にはこれだけあれば十分でしょう。ガスコンロもちゃんと3本準備しています。

でも,一番大事なのはトイレ用の水です。私が高校生の頃,台風の後に住んでいた寮が断水になって大変でした。寮の風呂場の水を各階のトイレまで運んでポリバケツに貯めて流していました。水がなくなったときには近所の湧き水のところまで水を汲みに行ったのだから本当に大変。

そういうわけで,台風が接近している今朝はお風呂に水を張っています。水洗トイレは本当に水がないと困りますからね。

君が来る来ない来る来る買い置きの食材増えてゆく冷蔵庫(俵万智)

2020年9月 3日 (木)

子どもの頃の夜は怖かった 夜は闇が深かった 

私が子どもの頃,昭和50年代のことです。当時は台風が上陸する度に停電になりました。私の家は商店街にあったのですが,それでも年に数回は停電を経験しました。

停電になると真っ暗闇。家の外は台風がゴーッと激しく風をたたきつけてきます。怖くなって父親のところにいくと,父は平然とタバコに火をともしてふかしていました。闇の中にタバコの真っ赤な日が見えるのも奇妙な感じでした。

鹿児島市に引っ越してきて10年ほどになります。まったく停電がありません。きっと九電工の皆さんががんばっていることなんでしょう。最近の夜が明るいのは九電工の努力だけではありません。コンビニエンスストアや外灯があちこちにできました。昔はコンビニなんてなかった。田舎で24時間営業なんてバカがやることだと思っていた時代でした。

しかし,40年後の今,その田舎でもコンビニがあちこちに出店し,夜中にも誘蛾灯(ゆうがとう)のように人を引きつける。灯りは人の心を落ち着かせるんでしょうね。

闇を経験することが本当に少なくなりました。私が経験したのも種子島にいた頃ぐらい。ちょうど今の鹿児島の家に引っ越す直前のことです。あのころは夜に仕事から戻るときに天の川をみることができるぐらい夜空が見えました。

そんな種子島の夜は,私が子どもの頃に感じていた闇の深さと似ていましたが,闇の怖さというのがありませんでした。種子島と言えば怪談話や幽霊話がたくさんありました。私が不動産業の仕事をした場所も首なし武者が現れるという怪談話が残っているところでしたが,幽霊を感じさせるような経験は一度もありませんでした。

ただ,夜の交渉で不思議な体験をしたことがあります。

午後8時ぐらいに地主のところに交渉に行ったときは本当に真っ暗でした。あまりにも闇が深くて歩けないぐらいでした。周囲には外灯も家もまばら。家はあっても電気がついていない。交渉相手の地主は農家だったのですが,本当に日が暮れて暗くなるまで働いていて,畑から家に戻ってくるころは真っ暗でした。そんなところに車でいっていたのだから,あのころは私も勇気があったんでしょう。

その真っ暗闇での交渉の後,車を運転して闇夜の道路にヘッドライトをともして走行していたところ,車の前を猫が右から飛び出し,道路を横断するのに気づきました。あまりにも突然だったのでブレーキを踏む間もありません。「やばい!」と思ってフェンダーミラーをのぞくと,その小さなミラーの中に,後ろ足を2本引き摺(ず)って,前足の2本だけで前に進む猫の姿がありました。

私の車で後ろ足を2本とも轢(ひ)かれたのでしょう。どちらもまっすぐに伸びていました。

あんな闇夜にどうして猫に気づいたのか。どうしてフェンダーミラーの猫が見えたのか謎です。だって,周囲に外灯はなく,車のライトは前方しか照らしていないのに。こういうときに人間の感覚は鋭く研ぎ澄まされるのかも知れませんね。

蝋燭(ろうそく)は消えない でも,ほんとうは 決して目をそらしてはいけない(間武)