人はなぜどんぐりを拾うのか? 寺田寅彦の珠玉の随筆「どんぐり」
私が子どもの頃は,なぜか夢中にどんぐりを拾う時期がありました。拾ったからと言って食べるわけでもなく,それを遊び道具にするわけでもない。でも,地面に落ちている美しいどんぐりをみつけると,つい手に取り,そのままポケットに入れてしまうのです。
最近は,人の行動パターンを遺伝子(DNA)で解析しようという試みが主流になりました。いわゆる行動心理学と進化論が統合されたような学問です。人は数百万年も昔から,どんぐりを拾ってそれを食用にして生きてきた。その名残でいまでも形のよい(おいしそうな,栄養のありそうな)どんぐりを見つけるとそれを拾うと解釈すれば,なんだか納得したような気持ちになります。
現代人はどんぐりのようなまずいものを食べる必要はなくなりました。でも行動パターンは簡単には変えられない,その証明と言えるかも知れません。
寺田寅彦随筆集の第1巻に「どんぐり」というエッセイが収録されています。私はこの作品が大好きです。寺田には肺病を患っている妻がいました。子どもを身ごもったものの長く自宅で静養する日々を送っていました。2月半ばの風のない暖かな日,医師から外出の許可を得た妻をつれて,寺田は自宅近くの植物園に出かけます。植物園をひととおり見終えて出ようとするとき,妻が地面に落ちているどんぐりに気付きます。
ちょっと長いですが,青空文庫からそのエッセイの後半部分をコピペしてみました。
出口のほうへと崖の下をあるく。なんの見るものもない。後ろで妻が「おや、どんぐりが」と不意に大きな声をして、道わきの落ち葉の中へはいって行く。なるほど、落ち葉に交じって無数のどんぐりが、凍てた崖下の土にころがっている。妻はそこへしゃがんで熱心に拾いはじめる。見るまに左の手のひらにいっぱいになる。余も一つ二つ拾って向こうの便所の屋根へ投げると、カラカラところがって向こう側へ落ちる。妻は帯の間からハンケチを取り出して膝の上へ広げ、熱心に拾い集める。「もう大概にしないか、ばかだな」と言ってみたが、なかなかやめそうもないから便所へはいる。出て見るとまだ拾っている。「いったいそんなに拾って、どうしようと言うのだ」と聞くと、おもしろそうに笑いながら、「だって拾うのがおもしろいじゃありませんか」と言う。ハンケチにいっぱい拾って包んでだいじそうに縛っているから、もうよすかと思うと、今度は「あなたのハンケチも貸してちょうだい」と言う。とうとう余のハンケチにも何合かのどんぐりを満たして「もうよしてよ、帰りましょう」とどこまでもいい気な事をいう。
どんぐりを拾って喜んだ妻も今はない。お墓の土には苔の花がなんべんか咲いた。山にはどんぐりも落ちれば、鵯の鳴く音に落ち葉が降る。ことしの二月、あけて六つになる忘れ形身のみつ坊をつれて、この植物園へ遊びに来て、昔ながらのどんぐりを拾わせた。こんな些細な事にまで、遺伝というようなものがあるものだか、みつ坊は非常におもしろがった。五つ六つ拾うごとに、息をはずませて余のそばへ飛んで来て、余の帽子の中へひろげたハンケチへ投げ込む。だんだん得物の増して行くのをのぞき込んで、頬を赤くしてうれしそうな溶けそうな顔をする。争われぬ母の面影がこの無邪気な顔のどこかのすみからチラリとのぞいて、うすれかかった昔の記憶を呼び返す。「おとうさん、大きなどんぐり、こいもこいもこいもこいもみんな大きなどんぐり」と小さい泥だらけの指先で帽子の中に累々としたどんぐりの頭を一つ一つ突っつく。「大きいどんぐり、ちいちゃいどんぐり、みいんな利口などんぐりちゃん」と出たらめの唱歌のようなものを歌って飛び飛びしながらまた拾い始める。余はその罪のない横顔をじっと見入って、亡妻のあらゆる短所と長所、どんぐりのすきな事も折り鶴のじょうずな事も、なんにも遺伝してさしつかえはないが、始めと終わりの悲惨であった母の運命だけは、この子に繰り返させたくないものだと、しみじみそう思ったのである。
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