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2020年6月17日 (水)

「猫を棄てる 父親について語るとき」を読む

「猫を棄てる 父親について語るとき」(村上春樹)を読みました。

村上春樹の父親の半生をエッセイ風に描いた小品です。幼い頃の村上春樹が父親と猫を棄てにいく思い出からこの作品は始まります。自宅で飼っていたネコを父親と一緒に遠くの海岸に棄てに行き,急いで自宅に帰ってみるとそこには猫が戻ってきていたという不思議なエピソードが,なんとなく,父親の数奇な人生を示唆しているようです。摩訶不思議な村上ワールドと,一切の妥協を許さない戦争という過酷な現実の間を,この父親が村上春樹を通じて交互に行き来をします。

父親が所属していた師団,連隊は,太平洋戦争初期のバターン攻略戦で壊滅し,太平洋戦争末期のレイテ決戦でも同様に全滅します。父親はちょうどこのとき,大学に復学していたため戦後まで生き延び,村上春樹の母親と出会い,そして村上春樹が生まれます。

村上春樹は,この偶然の積み重ねの結果として受けた生について,このように表現しています。

「言い換えれば我々は,広大な大地に向けて降る膨大な数の雨粒の,名もなき一滴に過ぎない。固有ではあるけれど,交換可能な一滴だ。しかしその一滴の雨水には,一滴の雨水なりの思いがある。一滴の雨水の歴史があり,それを受け継いでいくという一滴の雨水の責務がある。我々はそれは忘れてはならないだろう」

私は若い頃,自分自身に人間の価値があるのか,という問いを立てていました。こんなことを悩んでもしょうがないのでしょうけど,私なりの答えを見つけました。

そもそも人間の価値があるとはどういうことでしょう。人によっては,ナポレオンのような英雄だったり,ナイチンゲールのような多くの人を救う人であったり,アインシュタインのような人類の発展に貢献する物理学者を思い浮かべることでしょう。

わたしはそういう人間ではありません。では,そういう人間ではないから価値がないということか? いいえ,私はそれをきっぱりと否定します。

ナポレポンのような英雄も彼一人では存在し得ない。彼の両親がいて,さらに彼の両親がいて,さらにそのご先祖から命を受け継いできているのです。無名のご先祖様が命をつないでいたからこそ,ナポレオンは誕生したのです。そして,彼が生まれた時代,彼に影響を与えた全ての人々。このような無数の人々の奇跡のようなつながりが彼を英雄にしたと考えています。

それはナイチンゲールであっても,アインシュタインであっても同じです。

私は平凡なままこの人生を終えるかもしれません。そうだとしても,私の娘たちが,あるいは娘の子どもたちが世界のリーダーになるかもしれません。私の子孫はそうならなくても,私の言動に影響を受けた人々が,未来の鹿児島の発展のために尽くすかもしれません。そう考えると,私がどんなに無価値と言われようと,今ここに存在していることは十年後,百年後には必要であったということになるかもしれないのです。

村上春樹は父親との関係は長く疎遠だったことが,このエッセイには度々紹介されています。それは不幸な出来事なのかも知れませんが,父親から村上春樹に受け継がれたものがあちこちに見え隠れしています。それははっきりしていなくても,確かに存在しているのです。

思い出となりたるゆえに痛切の過去やすやすと語られている (尾崎左永子)

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