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2022年2月 1日 (火)

「唐棣の花、偏としてそれ反せり」はいにしえの遠距離恋愛の詩

論語の子罕(しかん)第九の最後に「唐棣の花」の一節があります。

「唐棣の花、偏としてそれ反せり。あに爾(なんじ)を思わざらんや、室これ遠ければなり。子の曰く、未だこれを思わざるなり。それ何の遠きことかこれあらん」

現代語訳(岩波文庫 金谷治訳)では「『にわざくらの花、ひらひらかえる。お前恋しと思わぬではないが家がそれ遠すぎて』先生はこの歌についていわれた、『思いつめていないのだ。本当に思いつめれば何の遠いことがあるものか』」

「現代人の論語」(呉智英)には確か、これは理想の政治に対する孔子の思いを示したもの、という趣旨の解説をしていたと思います。

でも、その後にこういう趣旨の話が続きます。「恋人のことを思って家が遠いなんて思っているうちは、本当に相手のことを想っていないのだ。私がこう解釈してみせると若い塾生たちは目を輝かせて聴いていた」

「遠距離恋愛」とは最近は死語に近いようです。似たようなフレーズも聞かないので、スマホや交通機関の発達などで関係なくなったからかもしれません。

私と妻が知り合ったのは25年も昔のこと。当時、私は鹿児島市に、妻は指宿市に一人暮らしをしていました。付き合っていた頃は、鹿児島から彼女の家へ車で会いに行っていました。時間にして1時間半。ドライブがきつかったなんて記憶はまったくありません。

特に何かをするわけでもなく、ただ彼女と一緒に過ごし、日曜日の夜には大河ドラマ「毛利元就」を見終えて鹿児島に帰るということが何度もありました。翌日は仕事なのに、家に帰ってくるは夜11時。それでも全然に苦にならなかった。

彼女と会えることが幸せならば、その移動にいくら時間がかかろうと、どんなに体力を消耗しようと、このときの私にはほんの些細(ささい)なことだったのでしょう。想いがあれば気にならないのですよね。

君が行く道の長手を繰り畳ね焼き滅ぼさむ天の火もがも 狭野弟上娘子(さののおとがみのおとめ) 

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