2021年7月15日 (木)

「シン・エヴァンゲリオン論」を読む

「シン・エヴァンゲリオン論」(藤田直哉」を読みました。

TV版は見たことはありませんが、その内容はうすうすは知っていました。何の評論だったかは忘れましたが、「TV版は最後の方になると原画などがでてくるなど、アニメの体裁がなっていない状態で最終回になった。これは当時の制作スタッフの精神的な混乱と、締切に間に合わないことでの無残で投げやりな態度」という批判的な内容だったと覚えています。

しかし本書を読むと、TV版の最終回に至るシリーズ後半の展開は作者(庵野秀明)が意図的に演出したものだというのです。

当時の若者たちに「シンジは僕だ」という共感を呼んだエヴァンゲリオン。シンジに感情移入、というか同一視した人たちは社会に適応できない若者たち、いわゆるオタクだったというのが本書の趣旨です。ここでいうオタクとは理系で人付き合いができず、うじうじしてアニメなどの仲間内だけでしか盛り上がることのできない人たちのことです。

オタクで有名な現象は「萌え」でしょう。2次元のキャラクターに恋愛感情を抱くなんて、子どもならともかく、大人になってそんなことを本気で思っているなら変人です。でも、1990年代に「萌え」が市民権を得て、今ではクール・ジャパンとして世界中に広がっています。

本書によれば、庵野秀明はこのオタクたちを「現実に帰れ」と突き放したのがTVシリーズだというのです。

最初は使徒という得体のしれない敵をやっつけるヒーローアクションだったエヴァンゲリオンでしたが、16話から変化していきます。16話ではシンジは操縦席でひたすら自己の内面と対話。シリーズ後半は一生懸命がんばろうとするシンジの心がへし折られ、心を病み、閉ざしていきます。22話ではアスカには母親の自殺を目の当たりにしたトラウマがあることが判明し、使徒の精神攻撃(レイプを連想させる描写)により彼女は廃人に近い状態に。23話では綾波がクローン人間であることが判明し、残虐に身体を破壊。24話では美少年の渚カオルが登場し、シンジと関係をもつが使徒であることがわかりシンジはカオルを殺す。25話、26話になるとシンジの内面での自問自答。最終回(26話)では最後にシンジが「僕は僕でしかない。僕は僕でいいんだ」と叫ぶと、スタジオのガラスが割れ、青空と海が広がり、登場人物が拍手しながら「おめでとう」を祝福する。

本書では、一連のストーリーを「あまりに唐突で、多くの人には意味がわからないだろう」と断じています。実際、作品全体の謎は解決されず、突然投げ出したかのような終わり方に相当は批判・反発があったようです。見ていたオタクたちは裏切られた思ったでしょうね。

本書の特徴は、作品「エヴァンゲリオン」は、オタクたちを、アニメファンを問題として捉えた「社会関与型の芸術」だと分析しているところです。

オタクたちは潔癖で自分の世界に引きこもる。アニメは潔癖な社会です。2次元のマンガやフィギアに恋愛を抱くのも同じです。なにしろ何も言わないのだから絶対に自分が裏切られることはない。完全な理想社会です。

そんな理想社会に閉じこもるオタクたちを覚醒させようというのが、劇場版に至るまでの一貫した思想だというのです。

確かに、劇場版「シン・エヴァンゲリオン」のラストシーンで、おっぱいの大きなマリがシンジと一緒に走り出し、映像がアニメから実写になっていくのは象徴的です。

それにしても本書を読んでこんな社会になったのはなぜだろうかと思います。若者たちから「生きる力」を奪っているのは誰なんでしょう。私の子どものときは山や川で遊ぶことは当然でした。そこは人の関与なんてありません。「自然」そのものでした。それが今の子どもたちは「安全・安心」の名のもとに「自然」の中に入ることを無条件に禁じられ、人工的につくられた体験型施設(責任者が監視する環境)の中でのみ楽しんでいます。

オタクの覚醒だけでいいのかしら?

夜明けとはぼくにとっては残酷だ 朝になったら下っ端だから(萩原慎一郎)

2021年7月14日 (水)

どんなに料理がおいしくて雰囲気がよくても接客が悪いと印象は最悪

午後から鹿児島中央駅界隈にでかけました。久しぶりの休日とあって、あちこちをぶらぶら。

都通電停近くの「鳥将軍」がランチ営業をしていたので、覗いてみました。ここはしばしば仕事帰りに立ち寄って一杯飲むことがありますが、もともとは居酒屋。コロナで客足が落ちているということでランチも始めたとのこと。

店に入って最初に食券を購入。ランチは3種類。500円でサイコロステーキ100gとあったので少食の私は迷わずそれを選びました。残りの2つはそれよりも金額は高かったようですが数百円の差なので、このあたりのランチで比較すると安いですね。

食券自動販売機の上部には、この店のランチのシステムの説明した張り紙が。読むと、メイン料理が出来上がると食券記載の番号で呼ばれるとのこと。ごはんや副菜はバイキングで自由にとっていいとのこと。食欲旺盛な労働者にはもってこいのシステムですね。

私はご飯を小盛りにして、アオサのすまし汁、副菜にサラダと漬物を少々小皿にとりました。そうして準備を整えたときに私の番号が呼ばれました。

厨房にサイコロステーキを取りに行くと、キャベツと醤油風味で炒めてあります。キャベツは千切りしたものあるのでサラダの残りかな? と思いつつもぐもぐタイムです。

ステーキは中がやや生っぽい感じでしたがまあこんな感じでしょう。おいしいですよ。何しろこれで500円ですからね。文句は言えません。店主も「定食屋のおばちゃん」というか「ガハハッ」と笑い飛ばす元気な女性で、少々のことは許してあげようと思います。

食べ終えた後は「シン・エヴァンゲリオン論」を読みました。時間にして15分ぐらいでしょうか。店内は空いていたこともあり、店主からはうるさく言われることもありません。ゆっくり寛(くつろ)ぐことができて満足です。帰りは店主が見送りまでしてくれます。すごいなあ。

その後、しばらくしてベル通りの「Banvina」(バンビーナ)というカフェに寄りました。ここはWi-Fiがあるのが売りで、ノマド族にはおすすめとネットで紹介されていたのです。前から気になっていたので、昼下がりのお客の少ない時間を見計らって入ってみました。

この店は最初に会計をすませるシステム。レジのところに行って検温をし、メニューを見ていると店員の若い女性はそっぽを向いてつまらなそうにしています。ドリンクを注文すると私とは目を合わすことなく紙を後ろの棚に貼り、お金の支払に至るまでまったく私を見ない、ふてくされた態度。私が何をしたというのか!?

怒るのも大人げないので、黙って席に付き、パソコンを開いてWi-Fiに接続し、ブログを書いたりして2時間ほど滞在しました。

もうひとりの店員は愛想がよく、きちんと接客をしていたようですが、私に対応した若い女性はコンビニ弁当を持って店内を歩いているのを見ただけ。たぶん休憩時間だったのでしょう。2時間も休憩だなんていい身分ですね。

店内はクーラーも効いていて明るい雰囲気。ドリンクも満足できましたが、「二度と来るかよ」と毒づいて店をでました。リラックスしたいのに嫌な気分になるなんてお金をだしてまですることではありませんからね。

朝ごとの検温をして二週間前の自分を確かめている(俵万智)

なぜ高校首席卒業者は億万長者になれないのか?

今、「残酷すぎる成功法則」(エリック・バーカー)を読んでいます。社会学者や心理学者などの論文を重ねて、理論的に人生の成功の秘密に迫る良書です。

ですが何しろ分厚い。文庫本なのですが、この本の厚さは500円硬貨の直径よりと同じぐらい。そういうわけで読み解くのも時間がかかるし、要約なんてとんでもないのレベル。そこで細かく切り分けて、興味深い箇所を取り上げてみます。まずは「なぜ高校首席卒業者は億万長者になれないのか?」です。

カレン・アーノルドの調査によると、イリノイ州の首席卒業者81人のうち、95%が大学へ進学。そして40%が弁護士、医師、エンジニアなど社会的評価の高い専門職に就き、多くの人は恵まれた暮らしをしていたそうです。

しかし、世界中の人々に感銘を与えるような人はゼロ。その理由を2つあげて分析しています。

1 学校は言われたことをきちんとする能力を評価する。学校の成績は自己規律、まじめさ、従順さを示しているだけで、意外なことに学力と知的能力の相関関係は必ずしも高くない。

2 学校はすべての科目でいい点を取るゼネラリストを評価する。学生の情熱や専門的知識はあまり評価しないが、これは実社会とは逆になっている。

カレン・アーノルドはさらに、純粋に学ぶことが好きな学生は学校で苦労するという事実を発見しています。皮肉ですね。

学校は明確なルールがありますが、人生はそうではありません。だから定められた道筋がない社会に出ると学校の優等生たちは勢いを失ってしまうのです。ルールに従う生き方は「天才」と「おちこぼれ」という両極端を排除する場所なのです。

京都大学教養部、心理学の木下先生が京都大学のことをこんなふうに分析していました。「京都大学はルールがない。だからアホとカシコの分布図をつくると山がない平坦な分布になる。ところが東京大学はルールが厳しい。だから真ん中(平均)に山ができて、アホとカシコが少なくなる。これが東大と京大の違いや」

もう30年も昔のことですが、木下先生の御高説(?)はアメリカの社会学者が実証してくれていたようです。

私の高校時代は中途半端な真面目さでした。学校の授業はきちんと受けて宿題もしましたが、独学で「倫理政経」をセンター試験用に勉強。自分なりの勉強法を編み出し(?)、この点については誰にも譲りませんでした。

私の高校首席は一浪して東大に合格。しかし、親の経営する会社が倒産して中退したと聞きました。その後の行方は高校の同窓会ではまったく話題になりません。完全に忘れられています。

ちなみに私の娘たちはトップクラスでしたが、首席卒業ではありませんでした。私は学校の成績よりも充実した人生を過ごすことがずっと大事だと思っています。学校の成績なんて人生の一場面に過ぎないのですから。社会に出たら無限の可能性が広がっているのです。10代で人生が決まるわけないでしょ!

「研修中」だったあなたが「店員」になって真剣な眼差しがいい(萩原慎一郎)

2021年6月28日 (月)

あなたは過去に戦いを経験し力をつけています タロット占いの結果

先日、鹿児島の武岡に最近オープンした「IKTOMI」に行ってみました。妻が教えてくれたのですが、ここのメイン料理は「タコライス」。ちょっと気になり、私も連れて行ってもらったのです。

バス通り沿いにあり、表には幟(のぼり)が数本立っていたのですぐに分かりました。中に入ると、まあ狭いこと。カウンター席に4つ椅子がおいてあるだけ。どうやらテイクアウト中心のお店みたいです。

私と妻はカウンター横のソファーに腰掛けそこで「タコライス」、妻は「タコス」をいただくことにしました。でも、この机には地球儀がおいてあるし、本などがあちこちに置かれて整理されていない状態。大丈夫かいな?

しばらくするとアメリカ人の奥さんが私たちのところにやってきて「湧き水です」とテーブルにグラスを置いてくれました。久しぶりに青い瞳の女性を見ました。彼女はここで英会話教室をしているとのこと。なるほど、道理で飲食店とは思えないインテリアだと思いました。そして彼女がひとつ付け加えました。「タロット占いをしてます。ぜひどうぞ」

私は占いを信じません。もちろんおみくじを引くことはありますが、それだけのこと。でも、タロット占いというのは経験がなく、無料で占ってくれるというので「タコライス」を食べ終えてから彼女にお願いしました。

「あなたが占ってもらいたいことを考えながらカードをシャフルしてください」。彼女の言うままにシャフルをしてからカードの山をテーブルに置き、そこから1枚抜き出してオープン。彼女は「タロットバイブル」という分厚い英文の本を開きました。

カードの絵には、木の棒が8本、柵のように立っていて、猫が木の棒を1本、自分の尻尾にまきつけて持ち上げていました。このカードが私から見て逆さまに表示されています。このカードを見て、彼女は読み解いていきます。

「あなたはこれまでに何度も戦いを経験してきましたね。その結果、あなたはすごい力を身に着けています。猫がしっぽで棒を持ち上げているのはその象徴です。『なんでも来いやあ』という感じです。でも、逆さまになっていますから注意が必要です。過去のことにとらわれないようにしてください。そして、あなたはこれからの戦いもその力で勝ち抜くでしょう」

彼女は「タロットバイブル」の文章の1箇所を指差しました。そこには「wisdom」(叡智、賢明)という単語が記されていました。「あなたはこれをもっています」

占いを信じない私ですが、これまでに幾度も「戦い」と呼ぶにふさわしい経験を繰り返してきました。これらの体験が私の財産になっていることはまさに彼女の読み解いたとおりです。そして昨年まではコロナ対策という未曾有の戦いの中で、組織の第一線で働いてきました。いまはその戦いから外されて、別の場所で働いています。

お店を出た後、歩きながら妻がささやきました。「500円でボリュームたっぷりのタコライスが食べられてタロット占いまでできるなんて、すごいお得だったね」と珍しくうれしそうな顔をしています。「タロットカードを解説を聞いて、本当に当たっているから笑っちゃったわ」

いい週末になりました。占いを信じない私ですが、とても勇気づけられました。

あなたまあおかしな一生でしたねと会わば言いたし父という男(斉藤史)

2021年6月27日 (日)

鹿児島県人は海外旅行に行かない コロナ時代に考えてみた 

鹿児島県民は海外旅行に行かないですね。そもそも日本自体が、国民の4人に1人しかパスポートを持っていない国ではありますが、都道府県別だと鹿児島県は43位。下位の県は東北や九州、島根県など過疎地域、日本の周辺部(太平洋ベルト地帯から離れた地域)になっています。

鹿児島県民は保守的だからという人もいるかもしれませんが、ちょっと違うのではないでしょうか。現在はすべて運休となっていますが、鹿児島空港にはソウル線、上海線、香港線、台北線があります。さらに就航は決定しているものの延期しているハノイ(ベトナム)線を含めると海外の5都市に直行便があります。

コロナ感染拡大前は、鹿児島市内は中国人旅行者で賑わっていました。冬場の鹿児島県内のゴルフ場は韓国人がいっぱいでした。ゴルフに縁のない人は知らないでしょうけど。

人手不足が常識なのは鹿児島県も同じ。ベトナムからの出稼ぎ労働者(研修生)があちこちの農場や工場で働いているのも当たり前になってきています。

鹿児島県人は彼らとはつきあわないことが多いですね。言葉の壁はもちろんですが、ほんとうにそれだけなんでしょうか。

小論「倭寇的状況下の薩摩」(松尾千歳)を読みました。今では普通のなんの変哲もない漁村である内之浦も、戦国時代(関ヶ原の戦い前後)には海外交易でにぎわう港町だったそうです。当時、京都の学僧藤原惺窩(ふじわらせいか)が訪れたときには、内之浦の住民の多くはルソン(フィリピン)など海外との交易に従事している人たちだったとの記録が残っているそうです。

戦国武将たちが天下統一を目指して戦っているころ、南九州など東シナ海に面した地域では国への所属や国境にとらわれない人たちが盛んに活動していたのが実態のようです。

朝鮮出兵のころ、明のスパイが薩摩に派遣されて、当時の内情を調査し本国へ報告しているのですが、それによると「薩摩はいつもいろんな国の船が停泊するところで、ルソン行が三隻、ベトナム行が三隻、カンボジア行が一隻、タイ行きが一隻、ヨーロッパ行が二隻いた」。国際性豊かなところだったようです。

日本から明への主要輸出品の硫黄の産地が南九州だったこともあり、島津氏は早くから朝貢貿易に関与していて、薩摩が明との貿易の中継地点であることから堺の商人らと強い結びつきがあったようです。関ケ原の戦いで敵中突破をした島津義弘が堺の商人らに助けられたのもこのような背景があるようです。

戦国時代とは信長、秀吉、家康の国内統一の話がメインですが、ある意味、国家権力が空白だった時代だったので、国の規制に従わずに大海原をまたいで自由に海外交易を行っていたことがわかります。その恩恵を最大限受けていた大名が島津氏だったようです。

利益になれば海外に行って儲ける。そういう進取の気性が鹿児島にはありました。しかし、そんな気概は失われているようです。今ではなにかにつけて「国(行政)は経済的に困っている私たちに補助金をだせ。金を配れ」の要求することで満足しています。

「朝三暮四」という四字熟語を思い出します。私たちは海外へ自由に行ける環境にあるのに、檻の中の猿を演じるようになったみたいです。飼い主(日本政府)の一言一句に喜び、怒り、自分が檻の中にいることを恥だと思わない。おそろしいほどの精神的退廃ですね。

クラクションの音に未明の意識冴えてむくむくとマニラの朝が始まる(俵万智)

2021年6月26日 (土)

馬がうじゃうじゃいた江戸時代の鹿児島 カウボーイ顔負けの生け捕り

鹿児島県内で馬をみることができるのは数えるほど。私自身、川辺(南九州市)の馬事公苑と頴娃(同じく南九州市)のアグリランドえいぐらいです。大隅半島は競走馬の育成で有名ですが、残念ながら実際に目にしたことはないんですよね。

江戸時代、鹿児島は馬の産地として知られていたと中野翠の小論「島津氏の藩営牧の概要及び肝付氏の喜入牧の苙(おろ)跡現況」に紹介されていました。

この小論によると、幕末の鹿児島市には薩摩藩が経営する牧場に馬が6000頭余り、農民や町人が所有していた馬を含めると全部で14万頭余りいたというから驚きです。

当時の日本全体の人口は3000万人、現在の人口の4分の1です。現在の鹿児島の人口がおおよそ160万人ですから、ざっくりいうと当時の鹿児島の人口は40万人。となると3人に1頭の割合です。

この小論で面白いと思ったのがほかに2つあります。1つは「馬追い」、もう1つが「屋久島の牧」です。

「馬追い」とは放牧している馬を捕獲すること。鹿児島では二歳馬を捕まえて業務用にしていたようです。逃げ回る軍馬を動員された住民と騎馬武者が取り囲み、包囲の輪を縮めながら「苙(おろ)」に追い込み、そこで生け捕るのです。「苙」とは地面を1メートル弱掘り、その外側に土塁(土の壁)を築いた円形の施設のことです。入り口はちょうど「八」の形をして外側に向かって開いていて、中から外へは出にくい形状になっています。

民謡に「○○馬追唄」なんてありますが、きっとそういうときに住民が歌った労働歌だったんでしょうね。

屋久島では牧場は設置されず、農民が必要に応じて野生馬を使役し、用が済めば野に放つ状況だったようです。野生馬を農民が簡単に捕まえることができたのも不思議ですが、それを田畑の耕作に使用できるまで飼いならすことができたのも不思議、そして苦労して手に入れて飼いならした馬をまた放つというのも不思議です。野生馬といいながら、人間と共生関係にあったのかもと、想像してしまいます。

農耕民族でありながら、こんなに馬を捕獲する文化・技術が継承されていたというのは不思議ですね。騎馬民族(モンゴル族、ヨーロッパ民族)であれば、牧畜文化なのでカウボーイなどを想像するのは容易ですが、日本の鍬(くわ)や鋤(すき)を手にしている農民ができるんでしょうか?

そういえば鹿児島は郷士制度がありました。当時の鹿児島の人口の半分は郷士として半農の武士だったことを考えると、郷士の嗜(たしな)みとして馬をもつ文化が継承されていたのかも。

夏のかぜ山よりきたり三百の牧の若馬耳ふかれけり(与謝野晶子)

2021年6月21日 (月)

日本最初のストリートピアノを弾いてみました。 

今日は久しぶりに鹿児島市内にひとりででかけてみました。

目的はこれといってないのですが、鹿児島中央駅にLIKAがオープンしたこともあるので、ちょっとよってみようかなというぐらいの軽い気持ちです。せっかくの梅雨の晴れ間なのに家にいるだけではもったいない。

バスに乗っている間、ストリートピアノのことを思い出しました。以前ネットで検索すると、鹿児島市内で検索したときに、鹿児島中央駅近くの一番街と天文館の中町にストリートピアノがあると紹介されていました。いまでこそ日本の駅や空港、商店街などあちこちにピアノが置かれていますが、一番街のピアノが日本最初のストリートピアノとネットで紹介されていたのでびっくりですね。

天文館のバス停で降りて、中町を山形屋に向かってある行くのですが、ピアノが見当たりません。開店前の化粧品店の前で清掃をそうしていた20代ぐらいのお姉さんに「このあたりにストリートピアノがあると聞いたんですが」と声をかけましたが、しばらくの沈黙の後「さあ、存じませんが・・」とのこと。

それから10分程歩いてようやく見つけました。なんと店の中にありました。わからないはずです。そのアップライトピアノは入り口の脇に置かれ、上品に黒光り。「ご自由にお弾きください」と案内された掲示板がピアノの近くにおいてありました。

しかし、この店の入口は人が2人ぐらい並んで入れるかなあというぐらい狭い。ピアノを演奏したらお客さんはお店に入りにくいだろうな、お店の前で演奏したら迷惑だろうなあ、とあれこれネガティブな思いが沸き起こり、結局そのまま通り過ぎました。

市電で鹿児島中央駅へ。今度は一番街のストリートピアノを探しました。こちらはすぐにみつかりました。居酒屋しげぞうの前にエメラルドグリーンのペンキで塗られた簡素なアップライトピアノです。鍵盤にはふたがしめられていて、南京錠で施錠するようになっていました。

案内板には「午前10時から午後5時まで。一人30分以内。ほかに待っている人がいたら譲りましょう」そんなことが書かれていました。

さっそく蓋をひらき、椅子に腰掛けて鍵盤をさわってみました。椅子の座りがどうも悪い。軸が折れているような感じで、ちょっと斜めになった椅子に腰掛け、今練習している「戦場のメリークリスマス」を弾いてみます。

イントロ部分の雪が降るような繊細なメロディーを弾きはじめたとき、右後方に人の気配を感じます。通行人だろうと思ってそのまま演奏を続けていると、その人が私の近くのテーブル席に腰掛けるのがわかりました。私は無視して演奏を続けました。

このストリートピアノは、私の家の電子ピアノとは少々音が違います。なんだか「ぴょこぴょこ」と間抜けたような音がするのです。それでもやはりアップライトピアノ。弾いているうちに気持ちよくなってきました。サビのところで何度かとちりましたが、気持ちよく最後まで弾き終えました。

演奏を終えた感慨に浸ったまま左のテーブル席を見ると、私と同じ年ぐらいの中年の男性がこちらをじっと見ています。髪は伸びているもぼさぼさ。体型もふとりぎみ。顔も平板で冴(さ)えない感じでした。

「弾かれますか?」と声をかけると、感情のない声で「はい」。私は話をする気も起こらず、そのまま「どうぞ」と席を立ち、自宅に帰るためにバス停に向かいました。この場所にいたのは時間にしておよそ10分。演奏も「戦場のメリークリスマス」の1曲を1回だけ。このおっさんはなんてずうずうしいんだろう。私が来たばかりなのを知っていながら、さっさとどけよと言わんばかりの態度をとるなんて。まあ、私も新参者ですから黙って早々に退散する方が得策でしょうけど。

バス停に向かって歩きながら、背後からピアノの音色に耳をそばだてましたが、まったく聞こえてこない。このおっさんは何者なんだろうか? と疑問が残りました。私がいなくなってから彼がプロ並みの演奏をしていたらすごいギャップでおもしろいんですが、とうとう謎のままでしたね。

ぜいたくに飽きてしまいし老人は古家に暮らせり遠い目をして(俵万智)

2021年6月20日 (日)

日本はコロナPCR検査もワクチン接種も先進国で最低だ を疑う

先週の朝日新聞に、日本の新型コロナウイルスに対する批判が掲載されていました。PCR検査件数は先進国で最低。ワクチン接種も出遅れており接種回数はこちらも先進国で最低だ、とのこと。

なるほど、アメリカのニューヨーク州では1回めのワクチン接種が7割ぐらいに行き届いているのでマスクがなくても集会などに参加できるとニュースで報じていましたね。一方、日本では、というより鹿児島では高齢者のワクチン接種が遅れていて、70代の私の両親は7月13日にようやく1回めの接種だとか。日本のワクチン接種は遅れているよなあと思いつつ、では他の国はどうなんだろうか? 疑問が浮かびました。

そこで今日の朝日新聞に掲載されている「世界の新型コロナ感染者」の表に掲載されている国を調べてみました。

まずはワクチン接種。日本経済新聞の記事で人口に占める接種回数を計算してみると、イギリスは107%。すごい、すでに1回目の接種は全国民が終えているかも。アメリカも94%、イタリアが72%、フランスが70%。そして日本は22%。ブラジルの38%よりも低い。朝日新聞の批判も当然ですね。

そして、PCR検査。こちらはネットで検索してもそれらしきデータが見つかりません。朝日新聞はどうやって調べたんでしょうか? 謎です。日本のPCR検査は他国に比べて少ない、有料(高額)だ、などの批判が多いところですが、先進国で最低という根拠がみつかりませんでした。

そして驚いたのが感染率です。人口あたりの感染率を調べてみました。アメリカは人口比で10%とやはり感染していることが明白。ブラジル、フランス、イギリス、イタリアなどは6〜9%となっているのがわかりますが、日本はなんと0.62%。驚異的な低さです。

そして人口10万人あたりのコロナによる死亡者数。トルコは4852人とダントツ。ブラジルは2344人、アメリカは1817人。フランスは1697人。イタリアは2120人。イギリスが1888人と先進国が2千人前後であるなか、日本はなんと113人(!)と一桁以上違います。

朝日新聞よ、「日本の感染対策は先進国に比べて遅れています」って言っていいの? データで見ると説得力にかけてるんじゃない? なんだか批判するために日本に悪い数字だけをもってきて、いちばん大事な数字を落としているように思えます。これじゃあ、欧米は日本よりもPCR検査を多く実施し、ワクチン接種も速いペースでやっているのに感染やそれによる死亡を防げていない。欧米諸国はけしからん、なんて記事になるのが普通の思考回路ではありませんか?

もちろん、それが日本でワクチン接種が遅れていることの弁明にはならないでしょうが、もうちょっと冷静に数字をみてもいいんじゃないでしょうか?

このデータを見て、日本では死亡者が例年よりも増えているのか気になって調べてみました。日本経済新聞の記事(2021年1月23日)によるとこうあります。

「2020年の国内の死亡数は前年より約9千人減少したことが22日分かった。死亡数は高齢化で年平均2万人程度増えており、減少は11年ぶり。新型コロナウイルス対策で他の感染症が流行せず、コロナ以外の肺炎やインフルエンザの死亡数が大きく減少したためとみられる。厚生労働省が22日に発表した人口動態統計(速報)によると、2020年に死亡したのは138万4544人で、前年より9373人(0.7%)減った。速報に死因別のデータはない。同省が9月分まで発表している死因別の死亡数(概数)によると、前年同期より最も減少したのは呼吸器系疾患で約1万6千人減っていた。内訳は肺炎(新型コロナなどを除く)が約1万2千人、インフルエンザが約2千人減っていた。」

この記事を素直に読めば、肺炎の原因となるウイルスがコロナに代わっただけ。だとしたら、日本国民はいったい何に怯(おび)えているのか。そろそろこの騒動の胡散臭(うさんくさ)さに気づいてもいいんじゃないかしら。

おもふ事だまつて居るか蟇(ひきがえる)  (曲翆)

2021年6月19日 (土)

7時27分の恋人半井小絵と軍事アナリスト小川和久が共演!?

とある人の紹介で令和3年5月29日、九州防衛局主催の「第40回防衛問題セミナー」に参加しました。このときのテーマは防災。講師は半井小絵と小川和久という異色の組み合わせでした。

半井小絵は10年ほど前にNHKのニュース7のお天気コーナーを担当。当時は週刊誌などで「7時27分の恋人」と呼ばれ、おじさんたちから人気がありました。講演の最初に彼女のプロフイールが紹介されたのですが、驚きました。なんと気象予報士になる前は銀行員。そして今は女優として北朝鮮の拉致被害者をテーマにした舞台劇に出演しているとのこと。衆議院議員として活躍した後シャンソン歌手になった女性問題評論家の田嶋陽子みたいな驚きの身の振り方にびっくり。

一方、小川和久は軍事アナリストとして有名です。30年前の湾岸戦争のとき、軍事評論家の江畑謙介のようにもてはやされてはいませんでしたが、毎日放送の深夜番組「板東英二のわがままミッドナイト」に出演し、「湾岸戦争は3日で終わる」と予言し、見事的中。その筋の関係者に衝撃を与えた凄腕のアナリストです。

小川和久の講演は簡単にまとめると「日本の防災対策は国際基準に達していない。国際基準に達することが最低限度しなければならないレベル。今の体制ではだめだ」という手厳しさ。

アメリカの防災訓練施設では、瓦礫の山などがあり、そこで訓練ができるようになっています。日本の防災担当者は頻繁にこの施設を視察しているそうですが、日本国内には類似の訓練施設はいまだに1つもない。視察が物見遊山(ものみゆさん)に終わっていると厳しく批判していました。

軍事アナリストらしく「自衛隊は日米安保条約によって合同訓練をするため、世界最高レベルのアメリカ軍と共同作戦を遂行する能力を身に着けて軍事レベルを維持している。しかし、防災は日本国に閉じこもって海外の優れた施設等から何も学ばない」と、自衛隊の危機管理能力と比較して批判していました。

確かに、日本の警察や消防は海外経験が乏しい。しかし、犯罪や災害は文字どおりグローバルに発生しています。ガラパゴス化しているのは日本の産業だけでなく、このような危機管理部門も同じだとするとずいぶんお寒いですね。

象徴的なのが阪神大震災における消防ヘリの問題です。神戸の街が火の海になって消防車とうによる消火活動が麻痺したとき、日本のヘリは消防活動を一切しませんでした。当時の防災関係者は「火災による上昇気流によって操縦が難しい」とか、「ヘリから水を落とすと下にいる被災者に水圧がかかって怪我をさせかねない」とか、「消火剤を振りかけると被災者に中毒症状が起きる」などと抵抗したためです。

しかし、実際には操縦が困難という事実はなく、日本ではそういう訓練をしたことがないというだけ(他国では消防ヘリが活躍していました)。また、ヘリから水をおとしても地上にいる人にとってはシャワーどころか「じょうろ」の水を浴びる程度しか水圧はなく、消火剤はすべて人体に無害であることが明白になりました。つまり、危機管理の官僚たちは事実ではないことを屁理屈にして反対していたのです。

防災関係の官僚(国、都道府県)や(市町村等の)消防などの組織は既存ルーチンを打ち壊されることに抵抗します。そこには防災に対する目的合理性はありません。

やるべきことはなにか、世界に広く学ぶチャンスはあるにもかかわらず、それを怠っています。彼らは一日千秋のごとく、前例の繰り返し。これで本当に「安全・安心」な社会を実現しようとしているんでしょうか? 

いやあ、小川和久氏にはしびれました。また、機会があればまた講演をお聞きしたいです。

許可車両のみの高速道路からわれが捨てゆく東北を見つ(大口玲子)

2021年6月16日 (水)

補助金の効果ってなんだろう 「まちづくり幻想」の失敗例

「まちづくり幻想」(木下斉)を読みました。

地方創生の掛け声があちこちにあふれ、国、県、市町村の補助金がどんどん使われています。そしてそのほとんどが失敗しているから「地方創生」事業をやり続けている現実。この本では「予算があれば地域が再生するは本当か」と疑問を投げかけています。

地域が衰退する不安に対して、学ぶことをせず、事業を増やすことばかり考える意思決定層は必要のない予算を次々に申請させると言います。事業数を増やし、予算が増えると得した気分になるのでしょうが、成果のでない事業が増えても人が疲弊するだけです。

予算のために限りある人材を使ってしまうと、肝心の事業に集中させることができず、総倒れになってしまいます。無謀な戦線拡大は全滅を意味すると言い切っています。

いいこと書いていますね。激しく同意します。

話は違いますが、「政党助成金」という制度があります。国会議員の数に応じて政党活動費を補助する制度です。ほとんどの政党はこの政党助成金をもらっていますが、ただ一つ拒否している政党があります。日本共産党です。

日本共産党のホームページには「日本共産党は国民本位の政治を貫くためには、国民との結びつきを通じて自主的に活動資金をつくるべきだと考えています。このため日本共産党は、政党助成金や企業・団体献金をいっさい受け取らず、党費や「しんぶん赤旗」購読料、個人からの寄付など、党員と支持者、国民から寄せられる「浄財」だけで活動資金をまかなっています。」と堂々と説明しています。

そうなんです。自主的に活動資金をつくってこそ「地域」本位の「まちづくり」を貫くことができるのです。日本共産党はいいことを言っています。でも、その一方で国民へのバラマキ政策を主張するのが理解できません。補助金を手軽にもらえるなら「国民」は「自分の人生」を貫くことができなくなりませんか?

新型コロナウイルス感染症対策でも、未曾有(みぞう)の状況だとして数兆円もの税金が注ぎ込まれています。生活に困っている人、不安をいだいている人が支援金、協力金、その他さまざまな名目の補助金を求めています。

もし、これが先例となって国民が何かに付けて同様の補助金を要求し、政府が支給するようになると思うとぞっとします。30年前は地域振興券というバラマキ政策を、「天下の愚策」と言うだけの気概のある政治家がいました。それが今や国民の求めに応じてばらまくことが政治になりつつあります。

鹿児島県でも無症状者に対する無料PCR検査が始まりました。県の発表によれば1億5千万円の予算を投じるそうです。この検査をすれば感染拡大がとまりますか? そんなわけないでしょ。そもそも無症状なら陽性にならない可能性が高い。PCR検査をしたときは陰性でも、検査した帰り道に感染者と濃厚接触をしたら意味がない。

無症状者に対するPCR検査をしている昨年度からやっている沖縄県。那覇空港では有料でやっています。沖縄は離島という水際対策が可能であるにもかかわらず、感染者の発生率は全国でダントツです。このほかにも広島県では今年の春から広島市や福山市で無料PCR検査を実施していましたが、5月の連休あたりから感染者が急増して緊急事態宣言が発令中。どちらの県も無症状者に対するPCR検査が無意味であることを証明してます。

失敗しているのが明白なのに鹿児島県はやるんですか? 今の鹿児島県は広島、沖縄両県よりも感染者が圧倒的に下回っているほど現場はよくやっているのに。予算を増やし、事業を増やし、戦線を拡大して、職員や検査機関が疲弊し、感染が拡大したら大笑いです。

そして大規模接種。東京、大阪では接種会場はガラガラだそうです。いったい誰が大規模接種をやれなんて言っていたんでしょうか? 鹿児島県でも2箇所でやるそうです。医師の確保はもちろん、入場整理等で人手が必要な上、多くの税金も使うことでしょう。これで会場がガラガラだったら大笑いです。

そういえば鹿児島県は昨年度にインフルエンザの予防接種も補助していました。予防接種を受ける人は過去と比べて大幅に増加したわけでもないのに発生数は皆無に近かった。補助制度のある県とない県でまったく差はありません。コロナ怖さで完全に理性を失っています。

大事なのことなので繰り返します。地域が衰退する不安に対して、学ぶことをせず、事業を増やすことばかり考える意思決定層は必要のない予算を申請し、成果のでない事業を増やし、人を疲弊させ、最後にこの地域(組織)は全滅します。

見えはじめすき透(とお)りはじめ少年は疑ひもなく死にはじめたり(小野茂樹)