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2020年9月20日 (日)

「京大的文化事典 自由とカオスの生態系」を読む

「京大的文化事典 自由とカオスの生態系」(杉本恭子)を読みました。久しぶりに学生時代を思い出しました。

高校2年生のとき,同級生と「青春18きっぷ」を利用して鹿児島から京都まで鈍行列車で行きました。目的はもちろん京都大学です。京都大学の教養部には全学連中核派の人たちがヘルメットにサングラスとマスク姿でアジ演説,キャンパスや東一条通には立て看があふれ,教養部のA号館の壁には無数のビラが貼られている。多感な私は心が踊りました。

あのときの京大吉田キャンパスには,猥雑(わいざつ)と喧噪(けんそう)と無秩序と混沌(こんとん)が渦巻いていました。言葉にできませんが,これが「自由」だと肌で感じました。

標題の本は1989年から2019年までを扱っています。著者は同志社大学の学生だったそうですが,京都大学の風を,私と一緒に感じていたことになります。

教養部は廃止されました。このときは単純に学部の名称が「教養部」から「総合人間学部」になるだけ,と思っていたのですが,これが京都大学の自治・自由に大きな影響を及ぼしているとはまったく気づきませんでした。本書を読んで,初めて知ったといっていいでしょう。

3,4年前(2015年頃),京都大学に行きました。家族旅行ですが,このとき,京都大学のキャンパスには小綺麗なカフェがあり,教養部の鉄筋コンクリート造の武骨な建物は全面ガラス張りのおしゃれなビルに変わっていました。もちろん,立て看もビラも学生運動の活動家たちも見当たりません。無味無臭のキャンパスに変わっていました。このとき一抹の寂しさを感じました。

あのときの京都大学は本当に「自由」でした。だからといって「自由」とは「何でもやっていい」ということではありません。「じゃあ,自由とは何ですか?どうすることなんですか?」と聞かれたら言葉では答えられません。

私の言葉ではうまく伝えられませんが,本書の最後に作家の森見登美彦(京大卒)がいいことを言っていましたので紹介します。「たとえば自分の身の回りの人や先人たちが,『ある状況ではこんなふうにふるまっていた』ということを見聞きして『それなら僕は今ここでこんなふうにふるまおう」と決めていく。言葉ではなく,いろんな人の生き方が重なっていく過程で,『あっ,これがもしかしたら自由なのかも?』という感覚をみんなで共有していくものではないかと思います」

私は本当に幸せだったな。

無頼派と呼びたき君の中に見る少年の空澄みわたり (俵万智)

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