人権が最高の存在という狂気の時代 呉智英の「人権を疑え!」
日本国憲法は大事なことが3つあります。国民主権、基本的人権の尊重、平和主義です。これは小学校の教科書でも学びます。そしてマスコミはこの3つを日本国にとってもっとも尊重すべきものであり、憲法を守れと声高に叫びます。
私は護憲派でも改憲派でもありませんが、必要ならば憲法は変えればいいんじゃない、ぐらいのスタンスです。だって、憲法には憲法改定の手続きについての規定があるんですよ。憲法を守れというなら改憲できるという規定も守らないといけないでしょ。私は非常識な人間ですが、この程度のことぐらいわかります。
それにしても「人権」とは何なんでしょう。中国共産党が支配する大陸では、日本のような「人権」はありません。だから、中国共産党以外の政党は存在しないし、中国共産党を批判する表現の自由もありません。そして農民は農民戸籍に縛られているので、上海などの繁栄している都市に自由に移住・就職ができず、農地にしばられています。
「人権を守れ」と言われるとほとんどの日本人はそれは正しいと思うでしょう。私もそうです。しかし、人権とは本来は何なのでしょう。呉智英は「人は右、車は左」という交通ルールと同じだと主張しています。「交通ルールを守る」ことは正しいことです。でも、国によってルールは違いますし、緊急時にまで守る必要はありません。交通ルールは人間が社会生活を営む上で、人為的につくられた「制度」です。真理でもなく、普遍的でもなく、人間の本性に基づくものでもないからです。
「人権」も同じです。しかし現実ははどうでしょう。それ自体が侵してはならない存在として通用します。「人権」を前にするとすべてがひれ伏してしまいます。「人権」は近代思想の「ひとつ」にすぎないのに。
20世紀は共産主義と民主主義との戦いでした。第2次世界対戦後は共産主義国家が民主主義国家を圧するかに思われましたが、20世紀の末期には共産主義の本家本元であるソ連が瓦解。イデオロギー対立は民主主義の勝利に終わったかのようです。
言うまでもなく、民主主義と共産主義は制度の違いであって、どちらが真理か、普遍的か、人間の本性に基づくか、という問題ではありません。
呉智英は「人権」もそういうイデオロギーのひとつだと断定し、かつての日本に存在した「朱子学」や「天皇制」と「人権」も同じだと論じているのです。
私たちは今、「人権」を守ることは重要なことだと考えています。これは絶対に守らなければならないと。おそらく太平洋戦争を戦っていた当時の日本人は「天皇制」を同じように重要なことだと考えていたでしょう。そう考えると、当時の日本人がなぜアメリカに対してあそこまで戦ったのかが、なんとなく理解できるのではないでしょうか。
人権が最高の存在となっている現在を呉氏は「狂気の時代」ととらえ、「思想の歴史を学ぶことによって、いずれこれが崩壊するだろうと確信ができる程度の見識はある」と自負し、「21世紀には、人権抑圧とは人権への抑圧ではなく、人権という抑圧のことであると、明らかになるだろう」と予言しています。
このブログを読んでいるあなた、「何を馬鹿なことをいってるんだ」と思っているでしょう。おそらく、大東亜戦争前の日本人のほとんどが「天皇制がいずれ崩壊する」、そして「70年後の日本人が『天皇制というとんでもない制度をなぜ守ろうとして戦争を続けたんだ』と批判している」なんて思っていなかったでしょう。
誰もが、現代の制度(思想)が昔から続いていたように、そして未来永劫続くように錯覚します。あなたもその一人なのです。
心弱きそのときどきのことば皆すでに未来に裁かれてあり(近藤芳美)
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