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2021年6月

2021年6月26日 (土)

馬がうじゃうじゃいた江戸時代の鹿児島 カウボーイ顔負けの生け捕り

鹿児島県内で馬をみることができるのは数えるほど。私自身、川辺(南九州市)の馬事公苑と頴娃(同じく南九州市)のアグリランドえいぐらいです。大隅半島は競走馬の育成で有名ですが、残念ながら実際に目にしたことはないんですよね。

江戸時代、鹿児島は馬の産地として知られていたと中野翠の小論「島津氏の藩営牧の概要及び肝付氏の喜入牧の苙(おろ)跡現況」に紹介されていました。

この小論によると、幕末の鹿児島市には薩摩藩が経営する牧場に馬が6000頭余り、農民や町人が所有していた馬を含めると全部で14万頭余りいたというから驚きです。

当時の日本全体の人口は3000万人、現在の人口の4分の1です。現在の鹿児島の人口がおおよそ160万人ですから、ざっくりいうと当時の鹿児島の人口は40万人。となると3人に1頭の割合です。

この小論で面白いと思ったのがほかに2つあります。1つは「馬追い」、もう1つが「屋久島の牧」です。

「馬追い」とは放牧している馬を捕獲すること。鹿児島では二歳馬を捕まえて業務用にしていたようです。逃げ回る軍馬を動員された住民と騎馬武者が取り囲み、包囲の輪を縮めながら「苙(おろ)」に追い込み、そこで生け捕るのです。「苙」とは地面を1メートル弱掘り、その外側に土塁(土の壁)を築いた円形の施設のことです。入り口はちょうど「八」の形をして外側に向かって開いていて、中から外へは出にくい形状になっています。

民謡に「○○馬追唄」なんてありますが、きっとそういうときに住民が歌った労働歌だったんでしょうね。

屋久島では牧場は設置されず、農民が必要に応じて野生馬を使役し、用が済めば野に放つ状況だったようです。野生馬を農民が簡単に捕まえることができたのも不思議ですが、それを田畑の耕作に使用できるまで飼いならすことができたのも不思議、そして苦労して手に入れて飼いならした馬をまた放つというのも不思議です。野生馬といいながら、人間と共生関係にあったのかもと、想像してしまいます。

農耕民族でありながら、こんなに馬を捕獲する文化・技術が継承されていたというのは不思議ですね。騎馬民族(モンゴル族、ヨーロッパ民族)であれば、牧畜文化なのでカウボーイなどを想像するのは容易ですが、日本の鍬(くわ)や鋤(すき)を手にしている農民ができるんでしょうか?

そういえば鹿児島は郷士制度がありました。当時の鹿児島の人口の半分は郷士として半農の武士だったことを考えると、郷士の嗜(たしな)みとして馬をもつ文化が継承されていたのかも。

夏のかぜ山よりきたり三百の牧の若馬耳ふかれけり(与謝野晶子)