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2021年6月

2021年6月27日 (日)

鹿児島県人は海外旅行に行かない コロナ時代に考えてみた 

鹿児島県民は海外旅行に行かないですね。そもそも日本自体が、国民の4人に1人しかパスポートを持っていない国ではありますが、都道府県別だと鹿児島県は43位。下位の県は東北や九州、島根県など過疎地域、日本の周辺部(太平洋ベルト地帯から離れた地域)になっています。

鹿児島県民は保守的だからという人もいるかもしれませんが、ちょっと違うのではないでしょうか。現在はすべて運休となっていますが、鹿児島空港にはソウル線、上海線、香港線、台北線があります。さらに就航は決定しているものの延期しているハノイ(ベトナム)線を含めると海外の5都市に直行便があります。

コロナ感染拡大前は、鹿児島市内は中国人旅行者で賑わっていました。冬場の鹿児島県内のゴルフ場は韓国人がいっぱいでした。ゴルフに縁のない人は知らないでしょうけど。

人手不足が常識なのは鹿児島県も同じ。ベトナムからの出稼ぎ労働者(研修生)があちこちの農場や工場で働いているのも当たり前になってきています。

鹿児島県人は彼らとはつきあわないことが多いですね。言葉の壁はもちろんですが、ほんとうにそれだけなんでしょうか。

小論「倭寇的状況下の薩摩」(松尾千歳)を読みました。今では普通のなんの変哲もない漁村である内之浦も、戦国時代(関ヶ原の戦い前後)には海外交易でにぎわう港町だったそうです。当時、京都の学僧藤原惺窩(ふじわらせいか)が訪れたときには、内之浦の住民の多くはルソン(フィリピン)など海外との交易に従事している人たちだったとの記録が残っているそうです。

戦国武将たちが天下統一を目指して戦っているころ、南九州など東シナ海に面した地域では国への所属や国境にとらわれない人たちが盛んに活動していたのが実態のようです。

朝鮮出兵のころ、明のスパイが薩摩に派遣されて、当時の内情を調査し本国へ報告しているのですが、それによると「薩摩はいつもいろんな国の船が停泊するところで、ルソン行が三隻、ベトナム行が三隻、カンボジア行が一隻、タイ行きが一隻、ヨーロッパ行が二隻いた」。国際性豊かなところだったようです。

日本から明への主要輸出品の硫黄の産地が南九州だったこともあり、島津氏は早くから朝貢貿易に関与していて、薩摩が明との貿易の中継地点であることから堺の商人らと強い結びつきがあったようです。関ケ原の戦いで敵中突破をした島津義弘が堺の商人らに助けられたのもこのような背景があるようです。

戦国時代とは信長、秀吉、家康の国内統一の話がメインですが、ある意味、国家権力が空白だった時代だったので、国の規制に従わずに大海原をまたいで自由に海外交易を行っていたことがわかります。その恩恵を最大限受けていた大名が島津氏だったようです。

利益になれば海外に行って儲ける。そういう進取の気性が鹿児島にはありました。しかし、そんな気概は失われているようです。今ではなにかにつけて「国(行政)は経済的に困っている私たちに補助金をだせ。金を配れ」の要求することで満足しています。

「朝三暮四」という四字熟語を思い出します。私たちは海外へ自由に行ける環境にあるのに、檻の中の猿を演じるようになったみたいです。飼い主(日本政府)の一言一句に喜び、怒り、自分が檻の中にいることを恥だと思わない。おそろしいほどの精神的退廃ですね。

クラクションの音に未明の意識冴えてむくむくとマニラの朝が始まる(俵万智)