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2020年1月 9日 (木)

「啓発」の出典は論語 「京都大学は諸君に何も教えません」の衝撃

『「知の体力」と「問う力」』(永田和宏)を読みました。著者は京都大学名誉教授であり,歌人としても有名です。

同氏はノーベル物理学賞を受賞した湯川博士に憧れて京都大学理学部に入学,湯川先生の講義を受けた最後の学年です。その当時の話はすべて忘れたが,湯川先生の講義を受けたことが研究者としての著者の自信になっているといいます。

それに比べ,今の学生が「この先生の講義が聴きたい」という教員への憧れではなく,偏差値で大学を選んでいることに,著者は残念な思いを持っているようです。

そもそも高校までは「いかに正しく答えられるか」が重要でしたが,大学では「いかに問うことができるか」が重要になります。学習から学問に変わると言えます。

論語に「憤(ふん)せずんば啓(けい)せず。悱(ひ)せずんば発せず」という一節があります(述而第七)。「憤す」とは知りたいという意欲が湧き上がってくること。「啓す」「発す」とは教え導くこと。「悱す」とはうまく表現できずにいい悩むことをいいます。

今の大学教育では学生が心底「知りたい」と求める前からどんどん教えています。これは啓発ではありません。大学まで来て「知りたい」と思っていない学生に教えることに意味があるでしょうか? と著者は問題を提起します。

また,文部科学省の方針である「リメディアル教育」に反対しています。これは学力が著しく不足している大学新入生のために,高校までの教育内容を復習するプログラムです。今ではこんなことをしているんですね。何のための大学入試なんでしょう?

著者の話を読みながら私自身のことを思い返しました。私も京都大学の「自由な学風」に憧れました。模試ではいつもD判定(当時はE判定はありませんでした)であっても,京都大学に合格するために勉強しました。

もっとも京都大学が特別なのかも知れません。1966年に著者が京都大学に入学したとき,入学式の式辞で奥田総長(京都大学では学長のことを総長と呼びます)が「京都大学は諸君に何も教えません」と述べて大変やショックを受け,「大学は高校とは全然違う場所。自分で知ろうとしなければ,何も手に入らないのだ」と武者震いしたそうです。こんな学風が残っている大学が他にあるんでしょうか?

きみに逢う以前のぼくに遭いたくて海へのバスに揺られていたり(永田和宏)

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