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2019年11月18日 (月)

「善意という暴力」を読む

「善意という暴力」(堀内進之介)を読みました。

善意とは不思議ですね。私も「善意だから」こそ逆に簡単には受け入れない何かがあります。ユリウス・カエサルの名言に『始めたときは、それがどれほど善意から発したことであったとしても、時が経てば、そうではなくなる。』というのもあります。

鹿児島でわかりやすい例と言えばマングースでしょうか。奄美大島にハブの天敵として輸入(?)したものの,ハブとは戦わずに天然記念物のアマミノクロウサギを食べてしまうという皮肉。これも最初はよかれと思ってしたことなんでしょう。その結果,マングースの駆除に予算と大変な労力を費消することになるわけですが。

さて,この本。第1章は「善意が暴走する時代」。自分勝手に善意を叫ぶのではなく,社会改良のために実践することの大切さを説いています。第2章は「共感」がテーマ。ジハーディ・ジョンの話などがでてきますが,何が言いたいのか不明。第3章は「依存症と官僚制」。突然ぶっ飛んだ展開になります。第4章は「承認欲求」。フェイスブックの「いいね」やトランプ大統領の選挙作戦を批判します。第5章は「陰謀論」。最近のネット右翼の主張に根拠がないことを逐次撃破。

「善意」と関係があるのは第1章だけ。第2章以降は???。この辺りになると「善意」はもはやこの本のテーマではなく,著者が知っている,あるいは賛同する学説の寄せ集めです。

その寄せ集めた学説の中でいい言葉だな,と思ったのが「ビュリダンのロバ」。腹を減らしたロバの左右に,完全に同じ距離,同じ量の干し草が置かれていた場合,ロバはどちらを選ぶことができずに餓死するという挿話です。

これは合理的な判断よりも,認知バイアスや感情のおかげで素早く判断することが可能になることを示しています。理性的に検討せよ,合理的に判断せよ,話し合いで解決せよ,といえばいうほど解決から遠のくという矛盾を教えてくれます。

私にとってのこの本の価値は,この一節だけでした。おそらく著者の意図とは正反対のことを言っているでしょうが,それはしょうがないでしょう。こんな本だから。

四百円にて吾のものとなりたるを知らん顔して咲くバラの花(俵万智)

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