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2019年6月

2019年6月28日 (金)

哲学書がつまらないのはなぜ? 哲学はもう死んでいるから

哲学と言えば「意味がわからない」と同義語です。私も哲学書をいろいろと読んでみましたが、これだ、と膝を打つような体験はありません。

これまで買った哲学書や哲学者が書いた本は「ソクラテスの弁明・クリトン」(プラトン)、「方法序説」(デカルト)、「死に至る病」(キルケゴール)ぐらいでしょうか。

ギリシャ哲学は対話形式で書いてあり、話し言葉なので平易と言えば平易なのですが、単語の意味が理解できないとさっぱり。例えば「エロス」(プラトン)。「エロス」の意味が現代のエッチな意味とどうもつながらない。古代ギリシャは同性愛も一般的だったということもありますが、私にはよく理解できませんでした。

それに比べると「方法序説」は非常にわかりやすい。自然科学の分析と哲学がないまぜになっている不思議な本ですが、当時の科学のレベルはともかく、デカルトの言いたいことが理解はできます。時代遅れというか、現代で解明した答えを知っているだけに、彼の説(見解)の誤りに気づくのですが、それはそれとして問題解決の思考方法などはとても参考になりました。

「死に至る病」ははっきりいって意味不明です。「絶望」についての定義はわかります。最初の10ページはついていけるのですが、その後は何を言いたいのかわからない。いつもここで挫折してしまいます。

今読んでいる「読まなくていい本の読書案内」(橘玲)にはフランシス・クリックのエピソードが紹介されています。DNAの二重らせん構造を発見し、科学の歴史に巨大な足跡を残したフランシス・クリックは「哲学者だけが意識の問題に取り組める、という考えには何の根拠もない。何しろ哲学者は2000年という長い間、ほとんど何の成果も残していない」と哲学の死を宣告したとか。

思考、意識、認識などの世界では脳科学、進化論の研究が進むにつれて、どんどん謎だったことが解明されてきています。哲学では太刀打ちできなかったこと、あるいは問いさえ立てることができなかったことが、です。フッサールの現象学やハイデガーをこき下ろしているのが爽快です。

現代哲学が出口のない隘路(あいろ)に陥っているからこそ、今、哲学は見向きもされていないんでしょう。今の人たちは、このことを理屈ではわからなくても、感覚として(無意識のうちに)「わかっている」と言えるかも知れません。その一方で、こんな世の中でも西洋哲学をありがたがっている権威主義者、ヨーロッパ文化崇拝者には残酷な時代ですね。

私の父も「純粋理性批判」(カント)を読まなきゃ、といって数十年経ちました。未だに読み通すことができないのに本を大事にしています。若い日にすりこまれた権威主義、教養主義から脱却することができないとこうなっちゃうんだろうなあ。

人住まうことなき家の立ち並ぶ展示会場に揺れるコスモス(俵万智)