ストリートピアノ Feed

2022年10月 4日 (火)

「あのときに勉強してれば」の嘘

成人式では、中学校や高校の時の同級生と会うのが楽しみという人も多いでしょう。私も30年ほど前に地元の成人式に参加し、そのまま中学校の同級生との立食パーティで語り合いました。

当時のクラスメートとたまたま顔をあわせました。彼は中学生のときはいわゆる「不良」で、成人式の当時は建設作業員でした。話の中で、彼が「中学校や高校のときに勉強していればよかったよ」とよくこぼしていました。低学歴ということもありますが、漢字を知らなかったり、計算が苦手だったりと社会に出てから苦労が多かったのでしょうね。

当時大学生だった私は、「大変なんだな」と調子をあわせて聞いていましたが、共感はできませんでした。当然ながら大学生の私は勉強中。彼の話を聞きながら「だったら、今、勉強しろよ」と内心思っていたのが本当のところです。

現在、50歳を越えた私ですが、ときどき同世代の人たちと飲むと「あのころ、こうしていれば」と後悔して愚痴をこぼす人がいます。取り返しのつかないことであればともかく、「勉強していればよかった」とか「もっと女性にアタックしていればよかった」とか言います。

では、そういいながら、当人たちは今何をしているのかというと、勉強もしていないし、女性に積極的にアプローチをしているわけでもありません。

勉強したいのなら、今勉強すればいいし、女性と付き合いたいのなら、好意をもった女性と付き合えるように努力すればいいのです。でも、そういう気持ちになっていないということは、軒局のところ、真剣に後悔していないのです。本気でそう思っていないのです。ただ、人生の失敗の原因をあげつらっているだけかも。

幸い、最近いっしょに飲む人たちは、人生をいきいきと過ごしているようで、そんな愚痴は口にしません。もちろん、彼らなりに悩みを抱えていますが、過去のことを悔やむようなことはほとんど言いません。私も、今どうするかについてはあれこれ考えますが、終わったことを思い出すことはあっても後悔して思い悩むことはありません。失敗して「あっ、やってしまったな。こうすればよかったな」と反省することは多々ありますが、それで終わりです。

勉強についても同じことが言えます。やり残したことがあるのなら、今、やればいいのです。人生に遅すぎることはありません。それをやらないのは本気で勉強したいと思っていない、勉強が大事だとは思っていないことの証拠にほかなりません。

私は今ピアノを練習しています。ユーチューブを見ながら練習をしています。ピアノを始めたのは50歳を過ぎてから。現在練習している曲は宇多田ヒカルの「桜流し」です。非常に難しい曲で、この半年(間に2ヶ月中断がありましたが)は毎日最低1時間は練習していますが、いまだにリズムを崩さずに通して演奏することができません。

ただ、私は本気でピアノを弾けるようになりたいと思っています。毎日、鍵盤に向かい、いつも躓(つまづ)いてしまうところを繰り返し練習します。

周囲がそれをどう思おうが私は気にしません。私は好きなことを好きなだけできる。それって、素晴らしいことだと思います。もちろん、完璧に演奏できるようになるのが理想ですが、誰かさんのように「ピアノを習ってたらよかったのに」みたいなことは言いたくないですね。

はかなくも明日の命をたのむかな 今日も今日もと学びをばせて(日新公いろは歌)