「ドリーム・ハラスメント」の恐怖 教師と親の偽善
「無理ゲー社会」(橘玲)を読んでいます。
橘玲の本は、出典がしっかりしているので日本の多くの新書にありがちな「〜と聞いている」「〜と思う」という曖昧さがない、しっかりとした証拠(調査結果)に基づいています。だから、彼の新刊が出版されるたびに必ず目を通しています。
この本ではさまざまな神話を事実で打ち砕いているのですが、非常に納得できる文章がありました。それが「ドリーム・ハラスメント」です。
もともとこの「ドリーム・ハラスメント」と名付けたのは、大学で学生のキャリア支援を行っていた高部大問(たかべだいもん)氏。その意味するところは「若者たちが夢に押し潰(つぶ)されていく実態」です。
大学生は就職活動で「あなたの夢を教えて下さい」などと必ず訊かれるので、高部のところには「夢なんてないのにどう答えればいいんですか」という相談が次々とやってくるそうです。高校でキャリア教育の講演をしたときには、ある生徒から「夢をもつことを強制されている」と訴えられたこともあったそうです。
「小学生のときに夢を具体的に決めるよう強制されて以来、将来の夢という言葉が嫌い」「夢がないことがそんなにだめなのか」「夢にとらわれずに生きたい」というのが若者の本音。つまり、現代の若者たちは、大人や社会が「夢をもたせよう」とすることをハラスメント(虐待)と感じているというのです。
なぜ日本社会に「夢」があふれるのか。高部はそれを「大人の都合」といいます。かつての日本には「学校で真面目に勉強すればいい大学に入って、いい会社に就職できる」という暗黙の合意があり、生徒たちはそれを自然に受け入れていた。しかし今では、こうした「きれいごと」が通用しない。そこで教師や親が子どもたちが勉強するためのモチベーションを上げるためにつくりだした「夢を実現するためにはいま頑張らないといけない」という夢至上主義が蔓延(まんえん)したというのです。
私の子どもたちが小学生のとき、半成人式という意味不明の行事がありました。小学校の参観日に、10歳になった子どもたちが自分の夢をクラスで発表するのです。私の娘は「キャビンアテンダント」と発表しました。他の子どもも発表していましたが覚えているのは「メイド」だけ。いうまでもなく秋葉原のメイド喫茶をマスコミが興味本位でもり立てていた頃のことです。「この子はマスコミが捏造(ねつぞう)した世界に迷い込んでいるなあ」と可愛そうな気持ちになったので私の記憶に強く残りました。
こんな夢を語ることが何になるのか? 夢をみんなもっているものなんでしょうか? 私が小学生のときにはそんな夢なんてもっていたかは覚えていません。あったかもしれませんが、テレビの影響をまともに受けたか、親の言っていることの受け売りかのどちらかだったでしょう。だって子どもですよ。社会経験もろくにないのに、自分が将来何になりたいかなんてわからないでしょう。そんなことより外で友達と遊びたい、が子どもたちの本音でしょう。百歩譲っても「将来はかわいいお嫁さんになりたい」ぐらいが関の山だと思います。
当時、こうやって夢をもたせようという、親や教師のやり方には偽善を感じました。夢をもつのも、もたないのも本人の自由です。夢を語る子どもたちを見ながら、「それが本心なのだろうか」「これが何になるのだろうか」と釈然としない気持ちになりました。
私は人から強制されるのが嫌いです。私自身は過去に「目標」をもつことはありましたが、「夢」をもつことはありませんでした。ましてや「夢をもて」を強要されたとしたら、私は反発していたことでしょう。私はいい時代に生まれたなあと感謝しています。
校正を入れずに刷った時刻表通りに乱れ始める世界(岡野大嗣)
コメント