アミュ地下フードコートの奇妙な人々 信仰に意味があるのか?
私の家は仏教徒です。といっても葬式仏教。祖先のお墓が曹洞宗のお寺の敷地にあるからというのがその理由で,積極的な動機があるわけではありません。
曹洞宗は只管打坐(しかんたざ)と,ただひらすら座禅を組みます。私の父は,私が小学生の頃から週に1回はこのお寺で座禅を組んでいました。私も実家で1年働いていたとき,父と一緒に1時間弱座禅を組み,般若心経(はんにゃしんぎょう)を唱えていました。
だからといって,何か悟りを開いたわけでもなく,精神的に成長したなんて実感もありません。ただ父に連れられてまねごとをしていたという認識です。
日本人は特段の宗教をもたないのが一般的。お正月には神社に初詣。お葬式は仏教。クリスマスはキリスト教。お彼岸やお盆は仏教。滝に打たれる修験道(しゅげんどう)などなど。神様もお地蔵さん,お釈迦様,天神様と多様です。
そんな私ですが,宗教をしっかりと自分の中心に据えている人をみると,清々しさと力強さを感じてしまいます。
大学生の時は少林寺拳法部に所属していました。私が幹部の時,1年下の後輩が練習にでてこない時期がありました。話を聞くと彼は創価学会の信者。その活動で休みがちということだったので,「お前は少林寺と宗教活動とどっちが大事なんな?」と聞いたことがあります。返事は「私は学会の活動を大事にしています」。遠慮がちないいぶりでしたが,揺るぎない決意を感じました。それを聞いた幹部連中は私も含めて,沈黙しました。「そりゃ,そうだろうな」。結局,黙認することとし,都合のいいときに練習にでてくるようにと忠告して終わりました。
私の大学時代の友人は,就職してから体調を崩し,仕事を続けるか悩んでいた時期がありました。彼が休憩室で悩んでいるとき,近くにいた女性社員がJリーグのチケットが取れなかったので泣き出さんばかりに悔しがっていたそうです。それを見て「この人たちは俺がくだらないと思っていることにも真剣に考えている。俺が悩んでいることって他人からみたら同じようにくだらないことなんじゃないか」と気付いたそうです。そのまま彼はキリスト教福音派に入信し,本場アメリカで2年修行。今では関西の教会で活動しています。数年前に会いましたが,大学時代と変わらない純真さを持ち続けていました。
宗教にはそういう憧れと同時に,困った面もあります。「ものみの塔」などのキリスト教系の新興宗教です。休日に家族を引き連れて戸別訪問,聖書への関心を尋ねてきます。一度はアミュ地下のフードコートでビールを飲んでいるときも,おばちゃんグループが「聖書は・・・」と話しかけてきました。
こういうとき,「私は仏教徒です」と言って断ることにしています。通常は,勧誘者もこれを聞くと簡単にあきらめてくれますが,アミュ地下のときは私の返事を聞いて「仏教徒だってよ」と仲間内でせせら笑っていました。
私の上司にはもっと上手がいます。宗教の勧誘がくると「私はオウムです」と断言するとか。たいていの人はそれを聞いて顔が引きつるそうです。そういう話を聞くと,宗教の勧誘活動をする信者って,本当に信仰をもっているのか疑問です。
私は般若心経は諳(そら)んじて言えますが,意味は知りません。神社の御札は10枚以上集めましたが祈願はひとつも成就しないため,すべて飾り棚から取り外しました。それでも神社に寄れば参拝し,実家に戻ればお墓によって手をあわせます。
私の宗教的な行動ってありきたりでとっても地味ですが,まあ,いいじゃないですか。少なくともアミュ地下のおばちゃんたちよりも,私の信仰心の方が厚いと思います。
青嵐神社があったので拝む(池田澄子)
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