歌人寺山修司との出会い 「あしたのジョー」がきっかけでもいいじゃん
「コレクション日本歌人選 寺山修司」を読みました。
寺山修司は私が小学生の時に亡くなった人です。彼が生きていた頃のことはリアルタイムでは全く知りません。「あしたのジョー」(ちばてつや)というボクシングマンガのなかで、主人公の矢吹丈の宿命のライバル、力石徹(りきいしとおる)が亡くなったとき、マンガの出来事なのに現実世界で葬儀が行われました。このとき弔辞を読んだのが寺山修司。私が彼を知ったのはこのエピソードを何かの本で読んだときでした。
天井桟敷(てんじょうさじき)という実験的な演劇分野で活躍したとの伝記はよく目にしますが、いまだに彼の作品を映像として見たことはありません。さまざまな分野で活躍したマルチ人間だったそうですが、私が知る限り「歌人寺山修司」です。
先日の日曜日、市立図書館でコレクション日本歌人選というシリーズに目を通したとき、寺山修司の名前を見つけ、さっそく借りて読んでみました。
彼の歌のほとんどは、母と故郷をテーマにしています。小さいときは父の都合で1年ごとに引っ越しをし、9歳の時に父が戦死した後は、母一人子一人の家庭で育ったこと、病気を抱えていて入院生活が長く、死を強く意識していたことを初めて知りました。
よく朝日新聞が寺山修司をとりあげます。おそらく熱心なファンが記者にいるんでしょうね。よく引用されるのが「マッチ擦るつかのま海に霧深し身捨つるほどの祖国はありや」。あまりにもこの短歌が引き合いに出されるので、わたしはてっきり左翼の活動家なのかと思っていました。「アカハタ売るわれを夏蝶越えゆけり母は故郷の田を打ちていむ」という歌もありますが、実際はどうなのかしら。
さて、この本には故郷を詠んだ歌、母を詠んだ歌が多数取り上げられています。ひとつひとつが心にしみこむ味わいがありました。いいな、と思った歌をここで記録しておきます。括弧書きの解説は同書の引用に私の解釈を追加しています。
ふるさとの訛(なま)りなくせし友といてモカ珈琲はかくまでにがし (都会にでてあかぬけたかのように振る舞う友人と、都会に順応することを拒絶する自分を対比させています)
駈けてきてふいにとまればわれをこえてゆく風たちの時を呼ぶこえ (寺山修司の葬儀のときに弔辞として詠まれた歌です。辞世の句といっていいかもしれません)
夏蝶の屍をひきてゆく蟻一匹どこまでゆけどわが影を出ず (解説では「わが影」を蟻の影としていますが、私は蝶の影と解釈します。そして、蟻は寺山自身を投影した存在。そう思えば、寺山は死者(死の影)から逃れられないというように解釈できるので納得できます)
一本の樫の木やさしそのなかに血は立ったまま眠れるものを (「血は立ったまま眠る」は浅利慶太が演出した劇の名前。テロを企(たくら)む過激な学生と一攫千金を狙う退屈な若者が、どちらも裏切りにあって失敗するさまを同時並行で描いたものです)
見るために両瞼(りょうめ)を深く裂かむとす剃刀(かみそり)の刃に地平をうつし (映画「アンダルシアの犬」のファーストシーン、満月に雲がたなびくと同時に鋭利な剃刀で女性の眼球を切り裂いていく、を連想させます)
かくれんぼの鬼とかれざるまま老いて誰をさがしにくる村祭 (鬼は年老いた私のこと。村祭では過去と現在、あの世とこの世が入り交じります。年老いた私は、子どもの頃を私をさがしているのかもしれません)
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