「シン・エヴァンゲリオン論」を読む
「シン・エヴァンゲリオン論」(藤田直哉」を読みました。
TV版は見たことはありませんが、その内容はうすうすは知っていました。何の評論だったかは忘れましたが、「TV版は最後の方になると原画などがでてくるなど、アニメの体裁がなっていない状態で最終回になった。これは当時の制作スタッフの精神的な混乱と、締切に間に合わないことでの無残で投げやりな態度」という批判的な内容だったと覚えています。
しかし本書を読むと、TV版の最終回に至るシリーズ後半の展開は作者(庵野秀明)が意図的に演出したものだというのです。
当時の若者たちに「シンジは僕だ」という共感を呼んだエヴァンゲリオン。シンジに感情移入、というか同一視した人たちは社会に適応できない若者たち、いわゆるオタクだったというのが本書の趣旨です。ここでいうオタクとは理系で人付き合いができず、うじうじしてアニメなどの仲間内だけでしか盛り上がることのできない人たちのことです。
オタクで有名な現象は「萌え」でしょう。2次元のキャラクターに恋愛感情を抱くなんて、子どもならともかく、大人になってそんなことを本気で思っているなら変人です。でも、1990年代に「萌え」が市民権を得て、今ではクール・ジャパンとして世界中に広がっています。
本書によれば、庵野秀明はこのオタクたちを「現実に帰れ」と突き放したのがTVシリーズだというのです。
最初は使徒という得体のしれない敵をやっつけるヒーローアクションだったエヴァンゲリオンでしたが、16話から変化していきます。16話ではシンジは操縦席でひたすら自己の内面と対話。シリーズ後半は一生懸命がんばろうとするシンジの心がへし折られ、心を病み、閉ざしていきます。22話ではアスカには母親の自殺を目の当たりにしたトラウマがあることが判明し、使徒の精神攻撃(レイプを連想させる描写)により彼女は廃人に近い状態に。23話では綾波がクローン人間であることが判明し、残虐に身体を破壊。24話では美少年の渚カオルが登場し、シンジと関係をもつが使徒であることがわかりシンジはカオルを殺す。25話、26話になるとシンジの内面での自問自答。最終回(26話)では最後にシンジが「僕は僕でしかない。僕は僕でいいんだ」と叫ぶと、スタジオのガラスが割れ、青空と海が広がり、登場人物が拍手しながら「おめでとう」を祝福する。
本書では、一連のストーリーを「あまりに唐突で、多くの人には意味がわからないだろう」と断じています。実際、作品全体の謎は解決されず、突然投げ出したかのような終わり方に相当は批判・反発があったようです。見ていたオタクたちは裏切られた思ったでしょうね。
本書の特徴は、作品「エヴァンゲリオン」は、オタクたちを、アニメファンを問題として捉えた「社会関与型の芸術」だと分析しているところです。
オタクたちは潔癖で自分の世界に引きこもる。アニメは潔癖な社会です。2次元のマンガやフィギアに恋愛を抱くのも同じです。なにしろ何も言わないのだから絶対に自分が裏切られることはない。完全な理想社会です。
そんな理想社会に閉じこもるオタクたちを覚醒させようというのが、劇場版に至るまでの一貫した思想だというのです。
確かに、劇場版「シン・エヴァンゲリオン」のラストシーンで、おっぱいの大きなマリがシンジと一緒に走り出し、映像がアニメから実写になっていくのは象徴的です。
それにしても本書を読んでこんな社会になったのはなぜだろうかと思います。若者たちから「生きる力」を奪っているのは誰なんでしょう。私の子どものときは山や川で遊ぶことは当然でした。そこは人の関与なんてありません。「自然」そのものでした。それが今の子どもたちは「安全・安心」の名のもとに「自然」の中に入ることを無条件に禁じられ、人工的につくられた体験型施設(責任者が監視する環境)の中でのみ楽しんでいます。
オタクの覚醒だけでいいのかしら?
夜明けとはぼくにとっては残酷だ 朝になったら下っ端だから(萩原慎一郎)
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