「アリとキリギリス」のアリの言葉は「それじゃあ今度は踊りなさいよ」
イソップ物語の「アリとキリギリス」は多くの日本人が知っているお話です。夏の間,頑張って食べ物を蓄えるアリと遊んで暮らしているキリギリス。ところが季節が冬になるとキリギリスは食べ物に困ります。一方,アリは食べ物を蓄えていたので冬を過ごすことができました。
日本人はこの小話から「勤勉であれ」という教訓を導きます。遊んで暮らすよりもこつこつと働くことが大事なんだと。イソップ物語の文章では最後の教訓としてこう書かれています。「ふんだんにある間に将来に備えない者は,時勢が変われば不幸に見舞われるものだ」
ところがラ・フォンテーヌの「寓話」となるとちょっと違います。「寓話」ではキリギリスではなくセミとなるのですが。北風が吹き始めて食べ物がなくなってきたセミに対して,アリの言葉が辛辣(しんらつ)です。
「暑い季節に何をしていたの?」「夜も昼も,みなさんのために,歌を歌っていたの,すみません」「歌をうたっていた? そりゃけっこうな。それじゃあ今度は踊りなさいよ」
すごい皮肉ですよね。わたしは20年以上前に,岩波ワイド版でラ・フォンテーヌの「寓話」を読んだことがあるのですが,この最後の強烈な皮肉は心に突き刺さっています。ラ・フォンテーヌはフランス人ですが,フランス人はこんな皮肉を口にするのかとドキリとしました。
ところが「悪知恵のすすめ」(鹿島茂)を読むと,私の解釈がまちがっていたことに気づきました。ラ・フォンテーヌはアリの生き方を嫌っていたというのです。だからこそ,アリがこんな嫌みなことを言うのだと。
驚くべきことに,フランス人にとって「アリとキリギリス(セミ)」の話は,アリを断罪し,セミを賞賛するための典拠になっているというのです。ラ・フォンテーヌ的解釈では,「働かず,歌で人を楽しませるセミ」の生き方こそ素晴らしく,「自分の食糧確保のためにひたすら働くアリ」は軽蔑すべき存在なのです!
本を読む楽しみは,こういうコペルニクス的転回があることです。昔,何気なく読んでいた本が,実はこんな思想を背景にしていたなんて。
最後にイソップ物語では「キリギリス」ではなく,「センチコガネ」になっています。いや,もともとは「センチコガネ」だったのが,日本に輸入されたら「キリギリス」になっていたというのも面白いですね。ちなみに「センチコガネ」のエサは動物の糞。冬になると糞が雨に流れて食料がなくなるという設定でした。これじゃあ,キリギリスに置き換えたくなりますよね。
事件とも呼べず右手の上にある一人暮らしの腐ったレモン(俵万智)
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